人を好きになるって、本当に力になる。

なんというか、心のよりどころのような感じがある。

もちろん、少し冷静に見れば、恋に恋しているだけなのかもしれない。

 

恋は、自分に覇気を戻してくれる

好きな人がいる自分に酔っているだけなのかもしれない。

でも、それでもいいじゃないか?と、私は思ってしまう。

 

だって、人を好きでいる時間には、確かに生活に覇気が出るから。

週末の予定を考える。
髪型を少し気にする。
服を選ぶ。
言葉遣いを考える。
姿勢や表情や立ち居振る舞いを、少しだけ意識する。

 

普段なら面倒くさいと思うことまで、なぜか出来てしまう。

「少しでも良く見られたい」
「少しでも魅力的に見られたい」
「少しでも、あの人の目に留まりたい」

そう思えるだけで、人は自分に手をかけ始める。

 

それは、ただモテたいという感覚とは少し違う。

モテたいは、不特定多数に向いている。
でも、好きな人に好かれたいは、たった一人に向いている。

誰でもいいから認められたいんじゃない。
その人に、見つけてほしい。

その違いは、とても大きい。

  好きな人がいるから、自分を見るようになる

不思議なことに、人は誰かを好きになると、自分を見るようになる。

あの人から自分はどう見えているんだろう?
この言葉はどう受け取られただろう?
この服装は似合っているだろうか?
この態度は恥ずかしくなかっただろうか?

 

そうやって、相手の目を想像する。

そして、その相手の目の中に、自分を見る。

 

これは、少し怖いことでもある。
だって、自分だけでは見えなかった自分が見えてしまうから。

雑な自分。
弱い自分。
格好つけたい自分。
認められたい自分。
好かれたい自分。
嫌われるのが怖い自分。

好きな人の存在は、鏡みたいなものなのかもしれない。

 

ただし、普通の鏡ではない。

自分の顔を映す鏡ではなく、
自分の心の姿勢を映す鏡。

だから、好きな人がいると、自分に関心が戻ってくる。

何も好きじゃない。
誰も好きじゃない。
他人に興味もない。

そんな状態では、自分自身にすら関心を持つことが難しい時がある。

 

自分を磨こうとも思えない。
自分を知ろうとも思えない。
どこへ行きたいのかも、誰に会いたいのかも、どんな自分でいたいのかも、ぼんやりしてしまう。

でも、好きな人がいると違う。

あの人に会うなら。
あの人と話すなら。
あの人の前に立つなら。

そう思うだけで、自分を整えたくなる。

恋は、相手に向かっているようで、
実は自分へ戻ってくる道でもあるんだと思う。

  恋は下心でいい

「恋は下心で、愛は真心」

この表現は、本当に上手いと思うwww

 

恋には、どうしたって下心がある。

好かれたい。
見てほしい。
振り向いてほしい。
選ばれたい。
特別に思われたい。

そんな感情がない恋なんて、たぶん綺麗すぎる。

いや、綺麗すぎるというより、人間味がない。

好きな人に良く見られたい。
好きな人に褒められたい。
好きな人に「素敵だな」と思われたい。

それは下心だ。

 

でも、その下心は汚いだけのものじゃない。

下心があるから、人は努力する。
下心があるから、自分を磨く。
下心があるから、相手のことを知ろうとする。
下心があるから、言葉を探す。
下心があるから、少しだけ勇気を出せる。

だから、恋は下心でいい。

 

ただし、下心のままで終わると、相手を見失う。

自分が好かれること。
自分が満たされること。
自分が輝くこと。
自分が救われること。

そこだけを見てしまうと、相手はいつの間にか、自分を照らすための道具になってしまう。

 

それは恋に酔っているだけなのかもしれない。

相手を見ているようで、
本当は、相手に見られている自分だけを見ている。

ここは、少し怖いところだと思う。

  振り向かれたあとに、愛は始まる

よく「釣った魚にエサをやらない」なんて言う。

 

あれは、かなり核心を突いた言葉だと思う。

振り向いてほしい時は頑張る。
手に入れたい時は努力する。
相手がこちらを見ていない時は、必死になる。

 

でも、相手が自分を向いてくれた瞬間に、安心してしまう。
そして、雑になる。
手を抜く。
大切にしなくなる。

それは、相手を好きだったのではなく、
「振り向かせようとしている自分」が好きだったのかもしれない。

 

きつい話だけど、これはあると思う。

恋は、振り向かせるまでが楽しい。
でも、愛は、振り向いてくれたあとに問われる。

相手が自分を見てくれたあとも、ちゃんとその人を見ることが出来るか?
自分の寂しさを埋めるためではなく、一人の人間として大切に出来るか?
自分の灯だけではなく、相手の灯も守れるか?

 

そこからが、本当の始まりなんだと思う・・・

恋は非日常をくれる。
愛は日常を守る。

恋は自分を動かす。
愛は二人の時間を育てる。

恋は「見てほしい」と願う。
愛は「見ていたい」と思える。

この違いは、とても大きい。

  家族の好きと、恋愛の好き

家族を好きだと思うこともある。

夫婦。
子供。
両親。
兄弟。

大切な存在であることは間違いない。

 

でも、大人になると、家族への好きは日常の中に溶けやすい。

そこにいるのが当たり前になる。
分かってくれているのが当たり前になる。
自分を向いてくれているのが当たり前になる。

子供に対してもそうかもしれない。

子供は、こちらを唯一無二の存在として見てくれる。

 

それは本当に尊いことだと思う。

でも、その尊さに慣れてしまうことがある。

 

自分を向いてくれている人を大切にするより、

まだ自分を向いてくれていない誰かを振り向かせたくなる。

これは、人間の弱さなのかもしれない。

手に入っていないものは輝いて見える。
すでにそばにあるものは、当たり前に見えてしまう。

 

でも、本当に大切なのは、
自分を向いてくれたあとも、ちゃんと向き合い続けることなんだと思う。

恋の高揚だけではなく、
日常の中で大切にし続けること。

そこに、愛の難しさがある。

そして、そこに愛の美しさもある。

  恋は、自分を見つける灯

私には、しっくりくる言葉がある。

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

 

恋は、自分の中に灯をともしてくれる。

暗かった日常に、少し明かりが差す。
ぼんやりしていた自分の輪郭が見えてくる。
何を着たいのか?
どう見られたいのか?
どんな言葉を使いたいのか?
どんな自分でいたいのか?

好きな人がいることで、自分の姿が少しずつ見えてくる。

 

でも、その灯を自分だけのために使っているうちは、まだ恋なのだと思う。

自分だけが照らされている。
自分だけが力をもらっている。
自分だけが救われようとしている。

それも悪くない。

 

恋の始まりは、きっとそれでいい。

でも、愛はその先にある。

自分を照らしてくれた灯を、相手にも渡せること。

 

相手もまた、自分自身を見つけ始める。
相手もまた、少しだけ自分を大切にしたくなる。
相手もまた、自分の言葉や姿勢や生き方を見つめ直す。

そうなった時、初めて二人は、お互いを知り始めるのだと思う。

 

一方通行の憧れではなく、
お互いがお互いの中に、自分を見つけていく。

それを愛って呼べたら、素敵じゃないか?

  愛は、下心を真心へ育てること

恋は下心でいい。

好きな人に好かれたい。
選ばれたい。
振り向いてほしい。
特別になりたい。

それは自然な感情だと思う。

 

でも、その下心を下心のまま終わらせないこと。

自分が満たされたいだけではなく、
相手も満たされているだろうかと考える。

自分が見てほしいだけではなく、
相手のことを見ようとする。

自分が救われたいだけではなく、
相手がその人らしくいられることを願う。

 

そうやって、下心が少しずつ真心へ変わっていく。

その変化を、愛と呼ぶのかもしれない。

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

自分だけが明るくなるのではなく、
相手の世界にも、そっと明かりを渡すこと。

 

その灯で、相手を支配するのではなく。
その灯で、相手を焼くのでもなく。
その灯で、相手を自分の都合のいい形に照らすのでもなく。

 

ただ、そっと渡す。

「あなたも、あなた自身を見つけていいんだよ」

そう思えること。

それが、私にとっての愛なのかもしれない。

 シンプルフレーズ

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

 

人を好きになることは、自分を知ることでもある。
そして、誰かを愛することは、相手が相手自身を知っていく時間を、大切に出来ることなのだと思う。