もう少しだったのに。
あと一歩だったのに。
その「あと少し」で手を抜いて、あとから後悔する自分に、何度もがっかりしてきた。
「あと少し」が出来ない私へ――ADHDかどうかより先に、見つめたい“最後で気を抜く癖”の話
「どうして最後までちゃんと出来ないんだろう?」
そんなふうに、自分にうんざりしたことがある人は少なくないと思う。
始めることが出来ないわけじゃない。
途中まで頑張れないわけでもない。
むしろ、そこそこ出来る。そこそこやれる。だから余計に厄介なんだ。
本当に困るのは、最後の最後。
ゴールのほんの手前。
仕上げのひと手間。
確認の一回。
その「あと少し」が抜ける。
マラソンなら、ゴールテープを切る前に足を緩めてしまうような感じ。
横断歩道なら、渡り切る直前で早歩きをやめてしまう感じ。
料理なら、盛り付けや最後の一工程を残したまま食べ始めてしまう感じ。
絵なら、あと少しで完成なのに、そこで満足してしまう感じ。
そして仕事になると、これが笑えなくなる・・・
怒られるほどではない。
でも、褒められもしない。
大問題ではない。
でも、同じような小さな抜けを繰り返す。
確認不足、ケアレスミス、ちょっとした遅れ、少し足りない詰めの甘さ。
学生時代なら、結果さえ出ていれば見逃されたこともある。
点数になれば、それで終わりだった。
でも社会は違う。
社会は、完成して初めて価値になる。
途中まで上手くやったことより、最後まで責任を持てたかどうかを見られる。
契約も、ハンコをもらって終わりじゃない。
製品も、形になっただけじゃ終わりじゃない。
人間関係も、話しかけた時点ではなく、最後まで相手との距離感を扱えて初めて成立する。
だからこそ、途中で気が抜ける癖は、社会では地味に痛い・・・
しかも厄介なのは、こういう人はだいたい自分の欠点を分かっていることだ。
分かっていないんじゃない。
むしろ、嫌というほど分かっている。
「またやった」
「なんでそこで確認しなかったんだ」
「なんで最後まで気を張れないんだ」
「もう少し気を使えたらよかったのに」
そうやって、後からちゃんと後悔する。
ここで、「ADHDだからかな」と考えたくなる気持ちも分かる。
注意が逸れる。
途中で別のことに気を取られる。
勢いで話す。
断られたことを忘れてまた誘う。
言ったつもりと、言ってない現実がズレる。
終盤で集中が切れる。
たしかに、そういう特性と重なる部分はあるのかもしれない。
でも、ここで少し意地悪な言い方をするなら、診断名がついた瞬間に問題が消えるわけじゃない。
ここは厳しく見た方がいい。
「ADHDかもしれない」は説明にはなる。
でも、それだけでは改善にならない。
もっと言えば、説明だけで安心し始めると、人はすぐに自分を甘やかす。
出来ない。
仕方ない。
特性だから。
そうやって、自分を守る言葉を並べることは出来る。
でも、本当に必要なのはそこじゃない。
必要なのは、自分はどこで気を抜くのかを正確に把握することだと思う。
始まりが苦手なのか。
途中で飽きるのか。
最後の確認だけ出来ないのか。
人間関係になると雑になるのか。
単純作業を繰り返すと精度が落ちるのか。
つまり、反省を気分で終わらせずに、構造として見ることなんだ!
ここで大事なのは、自分を責めすぎないことじゃない。
むしろ逆だ。
曖昧に優しくしないことだと思う。
「こういうところあるよね、私って」で済ませるのは、優しさじゃない。
ただの先延ばしだ。
本当に自分を助けたいなら、もっと具体的に見た方がいい。
たとえば、最後の確認が抜けるなら、
「確認しよう」と思うだけじゃダメなんだろう・・・
その時点で脳内ではもう終わっているから。
だったら、確認を気合いでやるんじゃなくて、仕組みにするしかない。
終わったら一呼吸おく。
指差しする。
チェック項目を固定する。
提出前に必ず一か所だけ見る場所を決める。
会話や約束は、その場のノリではなくメモに残す。
相手とのやり取りは、気分で扱わない。
すごく地味だ。
全然かっこよくない。
でも、こういう人に必要なのは、才能の開花より凡ミスを減らす工夫だったりする。
ここを受け入れるのは、少し悔しい。
本当は、勢いと感覚でスマートに生きたい。
ノリよく、自由に、気軽に、軽やかにやりたい。
いちいち確認なんてしたくない。
いちいち立ち止まりたくない。
でも、その「軽やかさ」が、誰かの手間になっているなら話は変わる。
その「気ままさ」が、相手にとっては雑さや無責任に見えるなら、そこは見直さないといけない。
ここは、忖度なく言っておきたい。
悪気がないことは、免罪符にならない。
後悔していることは、改善したこととは違う。
優しい人でいたいなら、勢い任せで人を振り回さない努力は必要だ。
これは厳しい話に聞こえるかもしれない。
でも、責めたいわけじゃない。
むしろ、逆だ。
自分を本当に救うのは、
「そんな日もあるよ」で終わる慰めじゃなくて、
「たしかにここは自分の欠点だ」と認める勇気だと思うから。
欠点を認めることは、自分を嫌うことじゃない。
欠点を認めることは、改善の入口を見つけることだ。
そして、人間関係においては、もう一つ大事なことがある。
それが、ちゃんと『ごめんね』から始めることだ。
忘れた。
抜けた。
気が散った。
雑になった。
その事実を、なかったことにしない。
「そういう特性だから」で押し切らない。
「悪気はなかった」で流さない。
「でも私なりには頑張ってる」で終わらせない。
ちゃんと、「ごめんね」と言う。
そして、出来る範囲でやり方を変える。
それだけでも、人は少しずつ信用を取り戻せる。
完璧じゃなくていい。
でも、未完成を放置したまま“これが私だから”で終わらせるのは違う。

そこを履き違えたら、自分らしさはただの開き直りになる。
私たちは、たぶん完璧にはなれない。
何度も抜けるし、何度も忘れるし、何度も後悔する。
それでも、毎回少しずつでも「最後までやる工夫」を覚えていくしかないんだと思う。
だって、人生も仕事も人間関係も、
途中まで良かっただけでは成立しないことがあるから。
あと少し。
その「あと少し」が出来ない自分に絶望する日もある・・・
でも、その絶望を言い訳にしないで、
「じゃあどうしたら最後の一歩を残せるか」を考えることは出来る。
気合いじゃなくていい。
根性じゃなくていい。
才能なんかいらない。
ただ、自分の抜け方を知って、自分の雑さを認めて、自分なりの補助輪をつければいい。
ちゃんと「ごめんね」から始める。
そして、何度でも小さくやり直す。
それは、情けないことじゃない。
むしろ、未完成な自分を見捨てないための、いちばん現実的な優しさなんだと思う。
シンプルフレーズ
「出来ない自分を許すことと、出来ないままで放置することは違う。」



