「風向きを変えることはできないが、帆の向きを変えることはできる」
そんな言葉がある。
ドイツ語では „Wir können den Wind nicht ändern, aber die Segel anders setzen.“ という形で広く知られているが、古いドイツのことわざと断定できるほど出典が固いわけではなく、19世紀英語圏の類似表現が有力な先行例らしい。

 

けれど、誰が最初に言ったかより、この言葉が今も残る理由の方が大事だと私は思う。

私の経験では、現実を一人で支えるのなんて正直無理なんだ。


愚痴りたいし、逃げたい。


・・・いや、違うね。

愚痴りたくて逃げたいからこそ、もうその時点で、現実を一人で支えられない状況なんだろう。

風は変えられない。でも、帆は一人じゃ張り直せない

私の場合、現実を受け入れるほどメンタルが強くないし

かといって、目的地に進めるほどの力を持っていない。

 

でも、だからこそ思うのは・・・

毎朝、行きたくない、起きたくないって思いながら嫌がる体を引きずっている姿が、一番私らしい・・・

 

風は向かい風

帆は折れてどこかに行った

仲間も友人も・・・新しく作っている最中

船は泥船。背中は火傷で・・・うさぎが笑ってる。

 

それでも止まれないのは、朝が来るから・・・

  帆を変えれば進める。でも、それが簡単なら苦労しない

たしかに、帆の向きを変えればいい・・・


帆の張り方を変えれば、向かい風にだって切り上がることはできる。
凪の時ですら波はある。

 

完全な無風も、完全な平穏も、たぶん人生にはあまりない。

 

でも、凪の時って、実際は流されるしかないんだよね・・・


そして人は、流される方が楽だ。
受け身で、指示待ちで、誰かの判断に乗っかる方が楽だ。

だって、自分で決めたら責任がついてくるから。責任を負いたくない。

失敗したくない。間違えたくない。だから、「このままでいい理由」を探してしまう。

 

それは怠けとか甘えとか、そういう話じゃない。
ただ、人間ってそういうものなんだと思う。
疲れてる時に帆なんか張り直せない。

 

心が擦り切れてる時に、舵を握って進路まで考えろなんて、だいぶ無茶な注文だ。

  日本は流される美学を持っている

このことわざには、進む意思がある。
風がどうであれ、目的地に向かう為に工夫する。

状況に文句を言うだけじゃなく、どう進むかを考える。そういう強い行動の匂いがある。

 

・・・でも日本だと、少し違う気がする。


諸行無常という言葉があるように、変わっていくもの、流れていくもの、どうにもならないものを受け入れる美学がある。


それはそれで、すごく日本らしいし、この国には合っているのかもしれない。

組織で生きること、人間関係で摩擦を減らすこと、空気を読むこと。

 

そういう社会の中では、「抗う」より「受け入れる」方が上手く回る場面も多いからだ。

ただ、受け入れることと、諦めることは違う。
ここを雑に一緒くたにすると、苦しい。

やるだけ無駄。
言っても仕方ない。
どうせ変わらない。
そうやって自分を納得させることはできる。

でも、心の中に愚痴や不満が溜まっていくなら、本当はまだ受け入れられていないんだろう。

  見方は一人では変えられない

難しい話や根性論や正論で殴りたいわけじゃない。
行動しない理由、できない理由、逃げたい理由。そんなものは、いくらでも出てくる。


そして実際、逃げたい時だってある。愚痴りたい時だってある。

 

だから私は思うんだ。
人は、自分だけの価値観じゃ、世界を変えられない。


それどころか、自分の見方すら、そう簡単には変えられない。

自分の中だけで考えていたら、同じところをぐるぐる回るだけだ。


だから必要なのは、誰か・・・自分以外の「何か?」なんだと思う。
 

知らない世界。違う価値観。自分とは違う目線。
他人の目でしか自分を測れないのが人の性質なら、その他人の目を借りて、新しい角度から自分を見直すことだってできるはずだ。

帆だって一人じゃどうにもならん。
風なんて、もっとどうにもならん。
だったらせめて、自分がどこへ向かいたいのか、その為にどんな帆の張り方があるのかを、他人の視点から知るのは悪いことじゃないと思う。

 

  草を花だと言う人を、笑わなくていい

フィンランドには、幸せな人には草も花に見える、そんなニュアンスの言葉があるという。

フィンランド語でのニュアンス

"Iloiselle on ruohokin kukka, synkälle kukka on vain ruohoa." 

(幸せな人には草も花であり、陰鬱な人には花もただの草である)

 

事実かどうかを厳密に問い詰めたいわけじゃない。

私が惹かれたのは、その見方の方だ。
 

受け入れるだけじゃない。
見方次第で、幸せや価値を見出だせるということ。

たしかに、草を花だと言い張るのはナンセンスかもしれない。


でも、その人がそう見えたのなら、それを頭ごなしに否定するほど、世界は親切でもないし、他人の為に言葉を使ってくれる人も多くない。

 

だからこそ、他人から得られる可能性を自分で選ぶことは必要なんだろう。
帆の向きを変える為に、他人の目線を知る。
そして、それを自分の意思で、自分の気持ちで、目的地へ向かう方法として使えたら最高だ。

  目的地を失わないこと。それでも、迷子もまた一興

あとは、自分の目的地を失わないことかな?


私みたいに迷子が好きで、ヒンメルみたいにダンジョンを全部回りたいタイプには、

目的地より過程を重視してしまう。

寄り道もしたい。全部見たい。無駄も味わいたい。

 

でも、それも一興だと思えるなら、凪の波に身を任せる諸行無常は、ある意味で美徳になるんだろう。
 

ただ流されるだけじゃない。
過程を愛するから、流される時間にも意味を見つけられる。

 

風は変えられない。
でも、帆は変えられる。
ただし、その帆は一人じゃ張り直せないこともある。

 

だからこそ、人は誰かの目を借りる。
誰かの言葉を借りる。
知らない世界を知って、自分の進み方を少しずつ覚えていく。

 

それでいいんだと思う。
一人で全部できなくてもいい。
愚痴っても、逃げたくなってもいい。
それでも、自分の目的地だけ見失わなければ、航海はまだ終わっていない。

 シンプルフレーズ

風は変えられない。
帆は変えられる。
でも、帆を変えるには、自分以外の手や、自分以外の視点が要る。

 

帆の向きは変えられる。
でも、張り直す手が足りない夜もある。
そんな時は、ひとりで沈まないことの方が先だ。