助かる方法なんて、知らない。
自分を許す方法なんて、もっと知らない。
それでも私は、潰されない為に、言葉を書く。

言語化することで事実はartになる

 

私の人生は、壮大な未完成のアートだ。 

出口のない暗闇を、言葉という絵具で塗りつぶしていく。 

その先に自由があるのかは知らないが、少なくとも私は、私の絶望を誰にも渡さない。

  助からない時、人は何をするのか?

世の中はよく言う。
「大丈夫」
「時間が解決する」
「前を向こう」
「自分を許してあげて」

たしかに、それで救われる人も居るんだと思う。


でも、どうしてもそうは思えない時がある。

 

許せないものは、許せない。
受け入れられない事実は、何度でも胸を刺してくる。
助かったとは、とても言えない。
現実に潰されて、息をするだけで精一杯な時だってある。

そんな時にまで、綺麗な言葉で丸められると、余計に苦しくなる。

だって、本当は助かっていないんだから。
本当は、何も終わっていないんだから。

だから私は思う。
人が本当に必要としているのは、立派な正論じゃない。
「それでも持ちこたえる為の方法」なんじゃないかって。

  許せなくても、言葉には出来る

私は、自分を許せない。
助かっているとも思えない。

 

でも、それでも出来ることがある。

それが、言語化することだ。

 

受け入れられない事実。
潰されそうになった出来事。
忘れたいのに忘れられない感情。
それらを、言葉にして置いていく。

感想にする。
経験にする。
表現にする。
作品にする。
歴史にする。
そして、少しずつ過去にしていく。

 

事実そのものは消えない。
起きたことは、無かったことにはならない。


でも、ただ潰されるだけだった出来事を、作品として置き直すことは出来る。

それは、救いと呼ぶのか。
許しと呼ぶのか。
正直、私は知らない。

でも少なくとも、沈黙したまま飲み込まれて終わるよりは、ずっと良い。
言葉にした瞬間、それは「ただ苦しかったこと」から、「私が表現したもの」に変わるからだ。

  ゴッホも、花束も、ただの物じゃなかった

私は、ゴッホを見た時にもそう感じた。
花束を見た時にも、そう感じた。

ただ綺麗だとか、ただ凄いとか、そういう話じゃない。

そこには、
「見た」
「感じた」
「受け取った」
という、私自身の事実があった。

 

それを言葉にすることで、景色は感想になる。
感想は経験になる。
経験は、自分の歴史になる。

 

つまり、言語化するというのは、単なる説明じゃない。
存在した事実を、自分のものとして引き受け直す行為なんだと思う。

見ただけでは、流れていく。
感じただけでは、消えていく。
でも、言葉にすると残る。

 

残るからこそ、そこに「在った」と言える。
残るからこそ、「私は確かにここで何かを受け取った」と証明できる。

  ブログは、ただの日記じゃない

だから私にとって、ブログはただの日記じゃない。

誰かに伝える為でもある。
自分を整理する為でもある。


そして何より、存在の証明の為でもある。

 

私はここに居た。
こう感じた。
こう苦しんだ。
こう考えた。
こうして、まだ言葉を持っている。

それを文字にして、外へ出す。
誰かの目に触れる場所へ置く。
そうすると、ただの個人的な痛みだったものが、公共の場所に立ち上がる。

 

もちろん、理解されるとは限らない。
共感されるとも限らない。
価値を返してもらえる保証なんて、どこにもない。

 

それでも、ひとつだけ確かなことがある。

言葉にされたものは、無かったことにはされにくい。

これが、とても大きい。

社会は、黙っているものを簡単に消す。
言えなかった痛みを、存在しないものとして扱う。
記録されない苦しみは、最初から無かったかのように流していく。

でも、書けば残る。
残れば、そこに在ったことを押し返せる。

  言語化とは、本来的価値を押し付けること

ここが、私の中ではとても大きい。

言語化することで、強制的に
人間の本来的価値
を押し付けることが出来るようになる。

 

これは、承認をお願いすることとは違う。
「分かって下さい」と頭を下げることでもない。
「共感して」と媚びることでもない。

 

ただ、ここに置くんだ。
私の感じた事実を。
私の受けた痛みを。
私の見た景色を。
私の存在を。

すると世界は、少なくともそれを
「無かった」
とは言えなくなる。

 

これが、言葉の強さだと思う。

価値があるかどうかを、誰かに決めてもらうんじゃない。
評価されるかどうかを、他人に委ねるんじゃない。

在ることそのものを、消せない形で残す。

それだけで、もう十分に強い。

だって本来、存在は、在るだけで価値がある。
なのに社会は、それを平気で見えなくする。
だからこそ私は、言葉で押し返す。

ここに居たと。
ここに在ると。
ここに、確かに人間が居たと。

  助からなくても、作品は残る

私は今でも、自分を許せない。
助かったとも思っていない。

 

でも、それでいいのかもしれない・・・

無理に綺麗な救済へ持っていかなくてもいい。
簡単に「乗り越えた」にしなくてもいい。


許せないままでも、苦しいままでも、言葉にすることは出来る。

助からないなら、作品にする。
許せないなら、表現にする。
潰された事実を、歴史にする。

そうやって私は、今日も書いている。

 

それは、誰かの為かもしれない。
自分の為かもしれない。
整理の為かもしれない。
存在証明の為かもしれない。

 

きっと、その全部なんだと思う。

でも、ひとつだけ言える。

救いがなくても、言葉は残る。
許しがなくても、作品は在る。
そして在るものは、世界に価値を押し返す。

それだけは、信じている。

 シンプルフレーズ

助からないなら、作品にする。
言葉は、存在を消させない為の最後の証明だ。