最初に言ってしまう。
人間関係がしんどいのは、相手が悪いからだけじゃない。
自分が「何を好きで、何を許せるのか」を知らないまま、人と関わっているからだ。

あなたが「誰でもいい」と言うとき、誰かを地獄に突き落としている。

 

「好きになった人が好き」 

「タイプなんて特にない、その人を好きになればそれが好み」

一見すると、執着のない、海のように広い心を持った言葉に聞こえますよね。

でも、ハッキリ言わせてほしい・・・

 

その「優しさ」の正体は、無責任な「自己欺瞞」であり、相手を逃げ場のない地獄へ閉じ込める暴力です。

 

今日は、実存主義の哲学者サルトルの視点を借りて、なぜ「自分の好みをハッキリ持たない人間」が人間関係を壊し、相手を不幸にするのか。その残酷な真実を解き明かします。

  他者は、最初から「人間性」では見られない

人が人を見る時、最初に入ってくるのは中身じゃない。
顔つき、雰囲気、声、話し方、服装、清潔感、前情報。
そこに先入観や固定観念まで混ざって、「この人はこういう人だ」と勝手に人物像が作られていく。

 

つまり私たちは、相手そのものを見る前に、相手についての“仮説”を見ている。
その時点で、もう完全に公平ではない。

 

好みが合う。なんとなく心地いい。共感できる。
そう感じた相手には、自然と余白を与える。

 

少し言い方がきつくても、「悪気はないのかも?」と思える。
逆に、苦手だと感じた相手には、その余白が消える。
同じ言葉でも、許せなくなる。

  ぶつかるのは当然だ

サルトルは戯曲『出口なし』で「他者は地獄である」というものがあります。

これは「他人が嫌な奴だ」「他人がただ邪魔」だという意味ではない。


人は他者のまなざしの中で、自分を決めつけられ、縛られ、苦しくなることがある・・・

そういう人間関係の逃げ場のなさを突いている。

 

自分のあり方を決める権利を他者に奪われること。

「まなざし」によって自由を奪われ、標本のようにピンで留められること。 

これこそがサルトルの言う「地獄」です。

 

だから、人と人が衝突するのは異常じゃない。
喧嘩も、行き違いも、意見のズレも起こる。
問題は、ぶつかった後にどうするか?だ。

  好みを知らない人ほど、相手に押し付ける

ここで大事になるのが、自分の好みを知っているかどうか?・・・だと思う。


自分はどういう人に惹かれるのか。
何なら許せて、何が本当に無理なのか。


そこが分かっている人は、歩み寄る理由を自分の中に持てる。

「この部分は苦手だけど、この誠実さは好きだ」
「不器用だけど、そこは許せる」
そうやって、相手を認める理由を自分で見つけられる。

でも、「好きになった人が好き」としか言えない人は危うい。


一見すると自然体に見えるけれど、実は自分の基準が曖昧なままなんだ。


すると衝突した時に、

「あなたが変わってくれたら許せる」

「あなたが歩み寄ってくれたら続けられる」

と、関係を保つ理由を相手に押し付けやすくなる。

 

歩み寄るための「理由」や「物差し」を自分の中に持っていないため、解決の責任をすべて相手に丸投げするのです。 

相手からすれば、逃げ場のない「正論」や「感情」という名の地獄に突き落とされたも同然です。

  自分の好みを知ることは、他人を雑に裁かないため

自分の好みを明確に持つことは、わがままになるためじゃない。


自分に合う距離を知るためだ。


近づける人。少し離れた方がいい人。無理に分かり合わなくていい人。
それを見極めるには、まず自分を知らなければならない。

人を許せるかどうかは、相手の正しさだけでは決まらない。


自分が何を好み、何に傷つき、何を大切にしているか・・・そこに大きく左右される。

だからこそ、人間関係で本当に必要なのは、他者理解の前に自己理解なんだと思う・・・


自分の好みを知ることは、相手を支配するためじゃない。
相手を必要以上に否定しないための、最低限の理性なのかもしれない。

 シンプルフレーズ

社会は、私たちを「都合の良い家畜」にしようと必死です。 

「みんなと仲良く」「相手に合わせなさい」「好みなんて言わずに受け入れなさい」

そんな不条理な同調圧力の中で、自分の「好き・嫌い」という感性を殺して生きることは、

サルトルの言う「自己欺瞞(自分に嘘をつくこと)」に他なりません。

 

誰に何を言われようと、「私はこれが好きだ」「私はこれが嫌いだ」という手綱を離さないこと。

 自分の好みを研ぎ澄ますことは、自分勝手になることではありません。 

それは、大切な誰かを自分の勝手な感情で振り回さないための、最低限の「知的なマナー」なのです。

あなたは今日、自分の「好み」という名の自由を、ちゃんと行使していますか?