同じ言葉でも、救われる人と傷つく人がいる。
同じ出来事でも、意味はまるで違う。
それは世界が違うんじゃなくて、「見ている人」が違うだけでした。
人はつい、物事を「何があったのか」で整理したくなります。
何を言われたのか。何が起きたのか。何を失ったのか。
でも、本当に心を揺らしているのは、出来事そのものではなくて、『それを誰がどう受け取ったのか』なのかもしれません。
同じ言葉を聞いても、傷つく人もいれば、気にしない人もいる。
同じ景色を見ても、救われる人もいれば、何も感じない人もいる。
それはきっと、世界が違うのではなく、その世界を見ている「誰か」が違うからなんですよね。
「何か?」ではなく「誰か?」で見ること
私たちは、つい物事の本質や正しさを知りたくなります。
これは何か。どういう意味か。何が正解か。
もちろんそれも大切です。
でも、人の経験って、そんなに簡単に「何か」で片づけられない気がするんです。
悲しかったことも、嬉しかったことも、腹が立ったことも、全部、
私にとってはこうだったという形でしか現れません。
つまり経験は、いつだって人称を持っているんです。
だからこそ、同じ出来事でもズレが生まれる。
でも、そのズレは間違いじゃない。
ただ、「見ている人が違う」というだけなのだと思います。
自分の中にも、いろんな「私」がいる
そして厄介なのは、他人とのズレだけじゃないんですよね。
自分の中にも、いろんな「私」がいる・・・
やりたい私。
やめたほうがいいと言う私。
信じたい私。
どうせ無理だと否定する私。
葛藤って、弱いから起こるんじゃなくて、
自分の中に複数の思いや声があるから起こるものなんだと思います。
しかも、そのどれにも少しずつ共感してしまう。
欲望のままに進みたい気持ちも分かるし、
傷つかないように止まりたい気持ちも分かる。
だから苦しいし、だから迷う。
でもそれは、きっと不自然なことじゃありません。
むしろ、人が人として生きている証拠なのかもしれません。
作られた自分と、これから作る自分
ここで大事なのは、今の自分が全部自由に作られたわけではない、ということです。
環境、関係、過去、言われてきた言葉。
そういうものに、私たちは少なからず作られてきました。
そこは、なかなか選べません。
でも、今この先の自分まで、全部決まっているわけじゃない。
これから誰と関わるか。
どんな言葉を選ぶか。
どんな自分を育てていくか。
そこには、少しずつでも選べる余地がある。
私は、ここに価値があるのだと思っています。
価値というのは、誰かに認められることだけじゃなくて、
「どの自分を生かしていくか」を自分で選び取ろうとすること
の中にも生まれるんじゃないでしょうか?
シンプルフレーズ
何があったか。
何が正しいか。
それを考えることも大事です。
でもときには、少し立ち止まって、
「それを感じているのは、自分の中のどの私なんだろう?」
と考えてみてもいいのかもしれません。
自分を一つに決めつけなくていい。
迷う自分も、求める自分も、止まりたがる自分もいていい。
その上で、今日はどの自分を前に出して生きるのか。
それを少しずつ選んでいくことが、自己理解の扉を開くことなんだと思います。
何があったか?より、誰が感じたか?
そこに目を向けたとき、少しだけ、自分のことを優しく理解できるのかもしれません。


