幼児期は共産、学生時代は社会、社会人は資本、老後は民主

人は、生まれた瞬間から、ずっと同じ世界を生きているわけじゃない。

同じ日本に生きていても、
同じ社会に属していても、
年齢や立場によって、
求められる価値観も、許される態度も、
まるで別の制度のように変わっていく。

最近、そんなことを強く感じる。

幼児期は、ある意味で共産主義的だ。
学生時代は、かなり社会主義的だ。
社会に出ると、一気に資本主義に晒される。
そして老後、組織から引退した時にはじめて、
人は民主主義を感じるのかもしれない。

乱暴な言い方に見えるかもしれない。


でも、これ、意外と生活感覚に近い。

今日は、責任・怠惰・主体性・権利という4つの言葉を使って、
この流れを考えてみたい。

 

  幼児期・・・存在しているだけで守られる世界

幼児期は、まだ成果を求められない

ご飯を作ってもらう。
服を着せてもらう。
泣けば誰かが来る。
何も生み出さなくても、
とりあえず「生きていていい」が先にある。

 

これは、制度としての共産主義とは違う。
でも、生活感覚としてはかなり近い。
存在しているだけで、必要なものが配分される世界だからだ。

この時期の責任は、ほとんどない。
主体性も、まだ弱い。
権利なんて言葉を知らなくても守られている。
怠惰であることすら、問題になりにくい。
寝て、泣いて、食べているだけでも、
とりあえず共同体の中で生かされる。

 

つまり、幼児期とは、

人が“役に立つ前に守られる”最後の時間なんだと思う。

  学生時代・・・守られながら、責任を学ばされる世界

学生時代になると、少し変わる。

 

学校という組織に属し、
ルールを守り、
集団行動を学び、
責任を持て、主体性を持て、協調しろと教えられる。

 

ここで面白いのは、学校はかなり厳しいのに、まだ資本主義ではないことだ。

成績はある。
競争もある。
比較もある。
部活やサークルで上下関係もある。
でも、それでもなお、
属しているだけで居場所がある

 

これってかなり大きい。

たとえ目立たなくても、
たとえ大きな成果を出せなくても、
とりあえず「生徒」である限りは、
その場にいることが許されている。

だから学生時代は、かなり社会主義的なんだと思う。

 

統制はある。
自由は狭い。
でも保護もある。
共同体に属している限り、
完全には市場に放り出されない。

ここで教えられる責任は、まだ倫理だ。
自分の行為を引き受けろ。
約束を守れ。
ちゃんとしろ。
迷惑をかけるな。
そういう、人としての責任だ。

 

主体性も同じだ。

自分から動け。
前に出ろ。
率先して行動しろ。
学生が思う主体性は、
たぶん部活やサークル、資格、進路活動みたいな、目に見える“頑張り”なんだろう・・・?

 

でも、この時点ではまだ、
責任も主体性も自分が持つものとして語られている。

 

  社会に出ると、言葉の文法が反転する

ところが、社会に出た瞬間に、同じ言葉なのに意味が変わる。

 

ここが怖い。

 

責任は、負うものから、負わせるものになる。
主体性は、持つものから、求めるものになる。
権利は、持っているものから、奪われうるものになる。
成果や報酬は、手に入れるものから、与えられるものになる。

 

同じ日本語なのに、
動詞だけが全部すり替わっている。

これが社会だ。

学生時代に教わった責任は、
「逃げないための言葉」だった。
でも社会で使われる責任は、
「逃がさないための言葉」になりやすい。

主体性もそうだ。
自分で考えて動けと言われる。


でも、実際に求められているのは「組織にとって都合のいい範囲で、自発的に動け」だったりする。

自由にやれ。
でも空気は読め。
意見を出せ。
でも面倒は増やすな。
主体性を持て。
でも責任はお前が取れ。

 

・・・うん、なかなか美しい。
ここまでくると、もはや現代詩である。

  資本主義が生むのは“下の怠惰”ではなく“上の特権の怠惰”

よく、社会主義の欠点として
「みんな平等だと怠ける人が出る」と言われる。

 

それはたしかにあるんだろう。
働きアリの法則みたいに、どんな集団でも動く人と動かない人は出る。
でも、それは選べる怠惰なんだ。

 

誰の側にも起こりうる。
共同体の中に混ざる怠惰だ。

 

でも資本主義が生む怠惰は、少し違う。

資本がある。
立場がある。
配分権がある。
評価権がある。
すると、自分は責任を持たずに済む。

命令ではなく「お願い」で動かす。
指示ではなく「分かってくれるよね」で押しつける。
成果は取る。
失敗は下へ流す。
それでも自分は、管理している側の顔でいられる。

 

これが、私には特権の怠惰に見える。

 

社会主義の怠惰は、みんなの中に混ざる。
資本主義の怠惰は、上に立つ者の特権になる。

この違いは大きい。

怠けることそのものが悪いんじゃない。
人間なんだから、怠ける。
疲れる。
サボる。
逃げる。
それは普通だ。

でも、責任を持たないまま他人を働かせる怠惰は、かなり汚い。

しかもそれが、資本がある側には許されやすい・・


ここが資本主義の怖さなんだと思う。

  マルクス・・・成果を生む者が、成果を持てない

ここでマルクスを思い出す。

マルクスは、労働者が自分の労働から疎外されることを問題にした。


自分が生み出した価値なのに、その価値の決定権も所有権も持てない。
働いているのに、働いたものが自分のものにならない。

 

これはすごく分かりやすい。

責任は取らされる。
成果は出さされる。
でも利益は上が持っていく。
自分が生み出したものを、自分で持てない。


これが疎外だ。

 

マルクスの怖さでもあり、鋭さでもあるのは、この構造が単なる金の話じゃなく、
人間そのものの問題になっていることだ。

 

働いているのに、自分の人生を生きている感じがしない。
努力しているのに、自分で手に入れた感じがしない。
頑張っているのに、評価も配分も他人が決める。

 

それはもう、
ただの労働じゃなくて、人生の外注みたいなものだ。

 

  フーコー・・・主体性は“自由”の顔をした管理になる

次にフーコーだ。

フーコーは、権力はただ命令するだけじゃないと見抜いた。
むしろ現代の権力は、
人に「自分で動いている」と思わせながら、
ちゃんと管理する。

 

これ、主体性の話にぴったりだ。

主体性を持て。
自分で考えろ。
自分で判断しろ。
言葉は自由っぽい。

でも現実には、
その主体性は、
組織にとって都合のいい自己管理として使われることが多い。

つまり、主体性は
持つものじゃなく、
求められるものになる。

しかも厄介なのは、
求めている側は責任を薄められることだ。

 

「自分で判断したんですよね?」
この一言で、組織はきれいに手を引ける。

命令ではなく、自主性。
強制ではなく、成長機会。
支配ではなく、自己実現。

いやいや、
包装紙がきれいすぎるだろう。
中身を見せてほしい。

 

フーコーを読むと、
現代社会って、ムチで叩くより、やる気を出させる方が上手なんだと分かる。

怖いのは命令じゃない。
自分の意志だと思わされることなんだ。

 

  アーレント・・・人は働くためだけに生きるんじゃない

そしてアーレント。

アーレントは、人間の営みを・・・労働、仕事、活動みたいに分けて考えた。
ざっくり言えば、人はただ生き延びるために働くだけの存在じゃない。
公の場に現れ、語り、行動し、世界に関わる存在でもある。

 

でも現実には、多くの人は働くことに追われる。

生活のため。
家賃のため。
明日のため。
組織のため。

その結果、
人は「市民」である前に「労働者」になる。

 

ここで、老後の話がつながる。

組織から引退したとき、はじめて人は
「私は会社の部品じゃなく、社会の一人だったんだ」
と思い出すのかもしれない。

 

だから老後になると、民主主義を強く感じる。
選挙に行く。
声を上げる。
権利をよこせと叫ぶ。

 

若い頃は責任を学ばされ、老いてから権利を主張する。

 

これ、ずいぶん遅れて届く民主主義だなと思う。

でもその遅さには、理由がある。
働いている間は、
人は市民である前に労働者として生きるからだ。

 

  老後・・・組織から外れて、はじめて民主主義を感じる

幼児期は共産主義的。
学生時代は社会主義的。
社会に出ると資本主義。
そして老後、ようやく民主主義。

 

この流れで見ると、人生ってずっと同じ制度を生きていない。

幼児期は、存在しているだけで守られる。
学生時代は、属しているだけで守られる。
社会に出ると、成果を出さなければ守られにくい。


そして老後、組織から外れたときに、
「私は票を持つ一人だ」と気づく。

つまり民主主義って、若い頃から持っているはずなのに、
実感するのはずっと後なんだろう。

 

だからこそ、
老後の声は大きくなる。
傲慢に見えるくらい強くなる。


それは単なる老害じゃなくて、
ずっと抑えられてきた“市民”が、最後に出てくる感じなのかもしれない。

 

  結局、私たちは何を奪われてきたのか?

こうして見ると、奪われてきたのはお金だけじゃない。

責任の意味。
主体性の意味。
権利の意味。
怠惰の意味。
それぞれの言葉の文法そのものが、人生の途中で変えられてきたんだと思う。

 

責任は、負うものだった。
主体性は、持つものだった。
権利は、あるものだった。
成果は、得るものだった。

でも社会に出ると、
責任は負わされ、
主体性は求められ、
権利は不安定化し、
成果は配分される。

このすり替えに気づかないと、人はただ「頑張りが足りない」と思わされる。


でも違う。
頑張りの問題じゃない。
文法の問題なんだ。

 

  まとめ・・・社会は、言葉の意味を変えて人を使う

 

幼児期は共産主義的な保護。
学生時代は社会主義的な所属。
社会に出れば資本主義的な交換。
老後にようやく民主主義的な要求。

 

そう考えると、人生とは成長ではなく、
守られ方と測られ方が変わっていく過程なのかもしれない。

 

そして、その途中で
責任も、主体性も、権利も、
ずいぶん都合よく使い直されてしまう。

マルクスは、成果を持てない労働者を見た。
フーコーは、自由の顔をした管理を見た。
アーレントは、労働に追われて公共性を失う人間を見た。

たぶん今の私たちは、
その全部の中にいる。

 

だからせめて、言葉の意味くらいは取り戻したい。

 

責任は、誰かに押しつけるための言葉じゃない。
主体性は、都合よく働かせるための言葉じゃない。
権利は、機嫌次第で削られる飾りじゃない。
怠惰は、下だけに貼られるレッテルじゃない。

 

そうやって見直した時、ようやく少しだけ、
自分がどこで何を失ってきたのかが分かる気がする。

 シンプルフレーズ

幼児期は守られ、学生時代は育てられ、社会では使われ、引退後にようやく叫ぶ。
それが、私たちの人生に埋め込まれた制度の流れなのかもしれない。

 

はぁ、なんて生きにくい世界なんだ・・・