学生の頃に言われる「主体性」と、
企業に入ってから言われる「主体性」。
あれ、同じ言葉の顔をしているのに、
中身、だいぶ別人じゃないですか・・・?
学生の頃の主体性は、分かりやすい。
部活を頑張る。
サークルを盛り上げる。
資格を取る。
進路のために動く。
率先して発言する。
みんなを引っ張る。
いわば、
「自分から動ける人」が主体的とされる。
なるほど。
青春だ。
キラキラしている。
履歴書にも映える。
面接官もニッコリである。
でも、社会に出た瞬間、
この「主体性」は少し様子が変わる。
いや、少しじゃない。
だいぶ変わる。
下手すると別の生き物になる。
企業が求める主体性って、
本当に「自分で考えて動くこと」なんだろうか・・・?
もちろん建前ではそう言う・・・。
自ら考え、
自ら行動し、
課題を発見し、
周囲を巻き込み、
成果を出せる人材を求めています・・・。
うん。
採用ページって、だいたいそう書いてある。
あれはもう、現代の詩だと思っている。
でも実際に求められているのは、
たぶんもう少し具体的だ。
チームにちゃんと入ること。
空気を読むこと。
余計な正論で場を凍らせないこと。
会社の方向性に疑問を持っても、
せめて今じゃない顔をすること。
つまり、
「自分を主体にする力」ではなく、
「組織を主体として受け入れる力」が求められている。
ここが、ちょっと面白い。
いや、笑えないけど面白い。
学生の頃は、
自分の意思で動けと言われる。
でも企業に入ると、
会社の意思を自分の意思みたいに持てと言われる。
このすり替え、
わりと鮮やかである。
主体性って聞いていたのに、
気づけば「協調性の上位互換」みたいな扱いになっている。
しかも厄介なのは、
ただのイエスマンでは足りないことだ。
黙って従うだけでは、評価されない。
「自分で考えて、この結論にたどり着きました」という顔で
元気よく同じ方向を向く必要がある。
そう・・・
受動的ではダメなのだ。
能動的に従わなければならない。
命令されて動くのでは遅い。
言われる前に察し、
期待される答えを先回りし、
笑顔で差し出す。
これが大人の主体性です・・・みたいな顔をされる。
なかなか高度である。
ほぼ職人芸だ。
つまり企業が言う主体性とは、
自由に自分を出すことではない。
組織の論理を理解し、
その論理を自分の中に住まわせ、
あたかも自分の意志であるかのように行動する能力。
言い方を変えれば、
「私は私の意志で動いています」
と言いながら、
ちゃんと会社に都合よく動ける人。
それが、社会で高く評価される主体性なのだろう。
なんとも便利な言葉だ・・・
主体性。
響きは自由。
中身は適応。
ラベルは自主性。
運用は従順。
まるで、
無糖って書いてあるのに後味が妙に甘い飲み物みたいだ。
いや、怖いのは飲み続けるうちに
それが普通の味になることだけど。
もちろん、会社という組織で働く以上、
協調や連携が必要なのは当たり前だ。
一人で働いているわけじゃない。
好き嫌いだけで動けるほど、
現実は優しくない。
だから、合わせること自体が悪いとは思わない。
ただ、そこで気になるのは、
「主体性」という言葉が、
あまりにも都合よく使われすぎていないか?・・・ということだ。
自分で考えろと言いながら、
考えた結果が会社に不都合なら嫌がられる。
意見を出せと言いながら、
求められているのは改善案であって反論ではない。
挑戦しろと言いながら、
失敗すると評価に響く。
自由にやれと言いながら、
自由の範囲はすでに引かれている。
すごい。
こんなに自由そうで自由じゃない言葉も珍しい。
主体性って、
ずいぶん働き者なんだなと思う。
会社の都合に合わせて、意味まで残業している。
だからこそ、
一度ちゃんと考えたくなる。
主体性とは、
いったい誰を主体にした言葉なのか?
自分を主体にして生きることなのか?
それとも、
組織を主体として受け入れることなのか・・・?
学生が思う主体性は、
まだ「自分」が真ん中にいる。
でも企業が求める主体性は、
たぶん「会社」が真ん中にいる。
この違いに気づかないまま社会に出ると、
多くの人は戸惑う・・・
主体的に動けと言われたから動いたのに、
それは今やるべきじゃないと言われる。
考えて発言したのに、
もっと周りを見てと言われる。
自分なりに判断したのに、
相談してからにしてと言われる。
社会って難しい。
主体性とは、前に出ることではなく、
前に出ていいタイミングを見極める能力だったらしい。
先に言ってほしい。
就活サイトのどこかに小さく書いておいてほしい。
※主体性には空気読み機能が必要です・・・( ´∀` )
って。
たぶん本当に問うべきなのは、
主体性があるかどうかじゃない。
誰のために動いているのか?
誰の意思を、自分の意思として引き受けているのか。
そのことを、自分で分かっているかどうか。
そこが曖昧なままだと、
「主体的に生きているつもりで、
ただ上手に適応していただけだった」
という、なかなか切ない話になる。
まあ、社会はそういう
“自発的に従える人”を高く評価する場所でもある。
それを大人の成熟と呼ぶのか、
上手な飼いならされ方と呼ぶのかは、
人によって違うだろうけど。
でもせめて、
言葉の意味くらいは見失いたくない。
主体性とは、
本来は「自分で考えて、自分で選ぶこと」のはずだ。
たとえ組織の中にいても、
流されながら流されていることに無自覚になるのと、
分かった上で引き受けるのとでは、
話がまるで違う。
従うことが悪いんじゃない。
合わせることが悪いんじゃない。
ただ、
それを「自分が選んでいる」と言えるかどうか。
その最後の感覚だけは、
たぶん手放さない方がいい。
主体性という言葉が、
会社の便利ワードとして消費される時代だからこそ。
せめて自分まで、
自分の主体を外注しないようにしたい。
そんなことを思う。


