噂話が好きな人がいる。
人の失敗が大好きな人がいる。
誰かの転落を見て、妙に元気になる人がいる。
人の幸せは喜べない。だから不幸を見てニヤリくらいが丁度いい
そういう人たちが本当に幸せかと言えば、たぶん別にそうとも限らない。
人の不幸を見て笑っている人が、満たされているとは限らない。
むしろ、自分の空虚さや退屈さや不安をごまかすために、他人の不幸に群がっているだけかもしれない。
それでもやっぱり、人は他人の不幸を見てしまう。
そして時には、そこに比較の快楽すら感じる。
「あの人よりはマシ」
「自分じゃなくてよかった」
「まだ自分は安全な側にいる」
そんなふうに、自分と比較して、ほんの少し愉悦に浸ることもある。
これは綺麗ごとでは消えない、人間のかなり生々しい部分なんだと思う。
他人の不幸が気になるのは、幸せだからじゃない
他人の不幸を見て喜んでいるように見える人が、
そのまま幸せを手に入れているわけじゃない。
ただ、不幸は刺激になる。
退屈な日常の中で、分かりやすく感情を揺らす。
自分の位置を確認させてくれる。
自分の安全地帯を、一瞬だけ実感させてくれる。
だから見てしまう。
だから反応してしまう。
人の不幸は蜜の味、というのは、
性格が悪いからだけじゃなくて、
比較によって自分の位置を確かめる本能に近いんだと思う。
でもそれは、幸せそのものじゃない。
せいぜい、退屈や不安を紛らわせる一時的な刺激だ。
安全な場所から眺めた不幸は、もう娯楽でしかない
そしてもっと厄介なのはここだ。
自分は安全な場所にいる・・・
テレビを見る。
報道を見る。
SNSを見る。
誰かの炎上。
誰かの失敗。
誰かの不倫。
誰かの破滅。
誰かの泣き顔。
それを、まるで映画やドラマでも見るみたいに眺めている時、それはもう情報じゃない。
エンターテイメントだ。
そう、人の不幸は、誰かの娯楽になる。
誰かの餌食になる。
ここがすごく怖いし、すごく今っぽい。
不幸そのものに価値があるんじゃない。
不幸を見せ物として流通させることに価値が出る。
不安も切り売りされる。
心配も押し売りされる。
不幸も編集されて、分かりやすく加工されて、消費しやすい形で提供される。
もうこれは、ただの不幸じゃない。
不幸ビジネスだ。
しかも、倫理とか道徳とかを口にしながら、その実いちばん気持ちよさそうに言いふらしている人がいる。
それは不幸を悲しんでいるんじゃない。
不幸を娯楽として提供しているんだと思う。
最高にイカれていて、最高にパンクで、最高にロックな世界だなと思う・・・
人の不幸を大いに喜ぶ。それを許さないのは、倫理か、建前か
もちろん、他人の不幸を大いに喜ぶなんて、
倫理観も道徳観も、そう簡単には許してくれない。
そんなの最低だ!
性格が悪い。
冷たい。
ひどい。
そう言われるだろう・・・
でも、現実にはみんな見ている。
現実にはみんな消費している。
現実にはみんな、少しは気持ちよくなっている。
そこを無かったことにして、
「私は違います」みたいな顔をする方が、たぶんよっぽど不誠実だ。
人の不幸を喜ぶこと。
人の不幸を見てニヤリとすること。
それ自体は、たぶん消えない・・・
消えないどころか、
この社会はそれを前提に回っている部分すらある。
だから問題は、「そんな感情を持つのは悪いことか?」ではなくて、
それをどう扱うかなんだと思う。
使う側に回れるのか、と言われると、私はそんなに強くない
だったら私たち自身が、
他人の不幸を提供する側になればいいのか?
人の不幸を切り売りして、
人の不安を煽って、
人の転落をネタにして、
視線を集めて、金にして、快感にして、主導権を握る?
理屈としては、たしかにそうだ。
使われるくらいなら、使う側に回れ。
この論理はすごく強い。
でも、正直に言うと・・・
世間体を気にする気弱な私には・・・そこまで露悪的にはなれない。
そんなに図太く、そんなに堂々と、他人の不幸を商品として振り回すなんて無理だ。
出来ることがあるとすれば、せいぜい一つだ。
自分の不幸を提供することくらいだ。
自分の不幸を差し出して、誰かの幸福の糧にできるなら
大いに自分の不幸を使う。
大いに自分の失敗を言いふらす。
大いに自分の惨めさをエンタメにする。
それで誰かが少し安心する。
誰かが少し笑う。
誰かが「自分だけじゃない」と思える。
誰かが「まだ自分はマシかも」と思える。
それって、すごいことかもしれない!???
綺麗な言い方をすれば、
他人の救いになる。
もう少し汚い言い方をすれば、
他人の幸福の糧になる。
でも、どっちでもいい気がするんだ・・・
だって現実に、
人は誰かの不幸を見て、自分を保つことがあるんだからさ・・・・
だったら、自分の不幸が誰かの役に立つなら、
それはそれで、かなり面白い使い方だと思う。
自分の傷が、
誰かの笑顔の材料になる。
自分の惨めさが、私の悲しみが、過去とトラウマが・・・
誰かの安心の材料になる。
なんだか皮肉で、なんだか優しい。
人の幸せを素直に喜べないから、不幸を見てニヤリくらいが丁度いい
もちろん、ここで
「他人の笑顔を喜べたら素敵ですね!」
みたいに綺麗に締めることもできる。
でも、ぶっちゃけ、そんなに綺麗に出来ていない・・・
人の幸せなんて、そんな素直に喜べない。
眩しいし、腹も立つし、嫉妬もするし、置いていかれた気にもなる。
私はそんなに善人じゃないし、聖人でもないし、良い人にはなれないんだ・・・
だから私には、無理して聖人ぶるより、
やっぱり不幸を見てニヤリくらいが丁度いいんだと思う。
大いに喜べ、とまでは言い切れなくても、
少なくともそこにある生々しい本音を、
無かったことにしない方が、よっぽど誠実だ。
他人の不幸は、誰かの娯楽になる。
誰かの餌食になる。
そして時には、誰かの幸福の確認材料にもなる。
だったらせめて私は、
自分の不幸くらいは、自分で使いたい。
誰かに勝手に消費されるくらいなら、
自分の手で、笑える形にしてしまいたい。
それが優しさなのか?ただのやけくそなのか?は分からない・・・
でも、最高に生々しくて、
最高に人間っぽくて、
少しだけロックだとは思う。
誰かの不幸は、誰かの娯楽になる。
だったらせめて、自分の不幸くらいは自分で笑える形にしたい。
人の不幸を見て笑っている人が、幸せとは限らない。
でも、人は他人の不幸を見て、自分と比較して、少し愉悦に浸ることがある。
そして安全な場所から眺められた不幸は、
もう情報じゃなく、エンターテイメントになる。
誰かの不幸は、誰かの娯楽になり、誰かの餌食になる。
それを大手を振って言いふらしている人たちは、
不幸を喜んでいるというより、
不幸を娯楽として提供しているんだと思う。
もうただの不幸ビジネスだ。
だったら、私たちは使う側に回るのか・・・?
・・・そこまで強くはなれない。私は弱いんだ・・・情けなくて・・・残念な生き物だから・・・
でも・・・?だからこそ、自分の不幸を差し出して、誰かの幸福の糧にすることくらいはできるかもしれない。
他人の幸せを素直に喜べない。
それならせめて、
不幸を見てニヤリくらいが丁度いい。
そのくらいの本音の方が、たぶんこの世界にはよく似合っている。
少なくとも私には、それくらいが丁度いい・・・



