フォレストのように、簡単には笑えない
それでも人は、囚われながら生きている
前回、私は『フォレスト・ガンプ』を見て思ったことを書いた。
幸せとは、悲しみと苦しみの上にしか生まれないのかもしれない。
幸せすら相対的価値で、「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれない、と。
戦争を知ったから、平穏が分かる。
批判を知ったから、受け入れられることが分かる。
離れる現実を知ったから、一緒にいられる時間が分かる。
そんなふうに、人は失う可能性を知ったあとでしか、
目の前にあるものの価値を、本当の意味では受け取れないのかもしれないと思った。
でも、書いたあとにもう一つ、強く思ったことがある。
・・・とはいえ、
フォレストのように簡単には笑えない。
ここが、現実なんだと思う。
今日はその続きとして、
人が悲しみや苦しみに囚われることの普通さについて書いてみたい。
人は、悲しみと後悔をそんなに簡単には越えられない
映画の中では、笑顔が象徴になることがある。
苦しみを通って、それでも笑えた顔。
それは確かに美しい。
でも現実の人間は、そんなに綺麗じゃない。
失った事実。
苦しかった事実。
裏切られたこと。
傷つけられたこと。
どうにもならなかった時間。
取り返せなかった過去。
そういうものは、簡単には消えない。
むしろ、ずっと残る。
しかも厄介なのは、
記憶として残るだけじゃなく、人を縛る形で残ることだ。
「あの時こうだったから」
「また同じことになるかもしれない」
「もうあんな思いはしたくない」
そうやって人は、過去から学ぶ。
でもその学びは、自由になるための知恵であると同時に、
次の一歩を止める鎖にもなる。
だから、悲しみや苦しみの上に幸せがあるとしても、
そこへ辿り着くまでには長い時間がいる。
あるいは、辿り着けないことだってある。
ここを飛ばして、
「辛い経験も意味があるよ」
「全部あなたの糧になるよ」
なんて言われても、正直困る。
糧になる前に、まず傷だからだ。
人の学習は、痛みを土台に積みあがる
カマス効果というモノをご存知だろうか?
一度ぶつかる。
一度痛い思いをする。
一度傷つく。
すると人は、その痛みを学習する。
本来それは、生き延びるために必要なことなんだと思う。
同じ失敗を繰り返さないため。
同じ絶望に呑まれないため。
同じ苦しみを避けるため。
でも、この学習はすごく残酷だ。
人は、「ここまでは危ない」
ではなく、「もうやめておこう」
を覚えてしまうことがある。
一度の失敗が、次の挑戦を止める。
一度の喪失が、次の愛情を止める。
一度の批判が、次の言葉を止める。
一度の痛みが、次の可能性を止める。
そうやって人は、自由より先に防衛を覚える。
だから、苦しみと痛みは確かに人を育てることもある。
でも、それ以上にまず、人を縛る。
自由と可能性を見出せないほどに、
幸せや喜びを感じられないほどに、
人を小さくしてしまうことがある。
これが現実なんだと思う。
フォレストは、学んだけれど囚われなかった
フォレスト、彼は何も知らなかったわけじゃない。
ちゃんと失っている。
ちゃんと苦しんでいる。
ちゃんと別れも知っている。
学んでもいるし、経験もしている。
でも、いわゆる「普通の人」がするような仕方では、そこに囚われなかった。
ここがすごく不思議だった。
普通なら、止まる。
普通なら、萎縮する。
普通なら、もう一度傷つくくらいならやめようと思う。
でもフォレストは、そうならなかった。
彼のあの笑顔は、何も知らない笑顔じゃない。
傷つかなかったから笑えた顔でもない。
むしろ、学んだのに、
学習に支配され切らなかったからこそ、あの笑顔があったように見える。
ここに少し皮肉がある。
知能の低さと言われるものがあったからこそ、
「普通の人」が過剰に抱え込む意味や失敗や羞恥や恐怖に、
完全には囚われなかったのかもしれない。
だとしたら、
私たちが“普通”と呼んでいるものは何なんだろう。
囚われるのが普通なのか、囚われないのが異常なのか
ここで、少し怖い問いが出てくる。
囚われる人の方が普通なのか。
囚われない人は異常なのか。
それとも、逃げ出すことこそ当たり前なんだろうか。
世間では、傷ついても前を向ける人が立派に見える。
囚われて動けなくなる人は、弱い人みたいに扱われる。
でも本当にそうだろうか。
私はむしろ逆だと思う。
傷ついたら囚われる。
痛みを知ったら止まる。
後悔を覚えたら慎重になる。
これはすごく自然だ。
つまり・・・囚われることの方が普通なんだと思う。
人は意味を考える。
失敗を記憶する。
痛みを一般化する。
「あの時ダメだったから、もうやめよう」
と、ちゃんと学習して、ちゃんと止まる。
その意味では、普通であることは、
傷をちゃんと覚えて、ちゃんと縛られることなのかもしれない。
だとしたら、囚われないことは何なんだろう。
異常というより、
世界の合理性から少し外れていることなのかもしれない。
学んでも、従い切らない。
傷ついても、止まり切らない。
苦しみを知っても、なお逃げる。
なお笑う。
それは危うい。
でも、だからこそ自由にも見える。
逃げることは、弱さじゃなく自由なのかもしれない
私が敬愛する山下清。
彼なら笑っただろうか?
彼なら囚われて動かなかっただろうか?
いや、たぶん彼なら、逃げ出して笑ったんじゃないか?と思う。
ここで言う逃げるは、ただの敗北じゃない。
過去からも、トラウマからも、苦しみからも、
いったん距離を取るということだ。
普通の人は、痛みから学ぶ。
恥を覚える。
迷惑を覚える。
空気を覚える。
そしてどんどん囚われる。
でも、逃げる人は少し違う。
囚われる前に離れる。
縛られる前に外へ出る。
意味づけで固まる前に、身体ごと動いてしまう。
それはきっと、綺麗なことじゃない。
立派でもない。
でも、生き延びるためには必要なことなんだと思う。
囚われるのが普通なら、
逃げて笑うことは異常じゃなくて、自由なのかもしれない・・・
最後まで逃げられなかっただけの話なのかもしれない
ただし、人はずっと逃げ切れるわけじゃない。
どこかで捕まる。
身体に。
社会に。
時間に。
老いに。
病に。
死に。
だから「逃げればいい」で全部済むわけでもない。
最後まで逃げられなかっただけの話、というのも、たぶん本当だ。
逃げられる間は逃げていいんじゃないか。
笑える間は笑っていいんじゃないか。
囚われる前に距離を取れるなら、それも一つの才能なんじゃないか。
だって、人はそんなに強くない。
後悔も悲しみも苦しみも、簡単には越えられない。
ならばせめて、そこに完全に呑まれる前に、
少しでも外へ出ることができたなら、それは立派な生き方だと思う。
フォレストのように簡単には笑えない。
でも、だからこそ分かる。
笑うって、何も知らないことじゃない。
苦しみを消したことでもない。
囚われなかったことでもない。
囚われ切る前に、ほんの少しでも外へ出られた瞬間のことなのかもしれない。
フォレストのように笑えない私たちは、それでもどう生きるのか
前回、私は幸せとは「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれないと書いた。
でも現実の私たちは、フォレストのように簡単には笑えない。
後悔と悲しみは簡単には越えられないし、
失った事実、苦しかった事実は、人をずっと縛る。
人の学習は、苦しみと痛みを土台に積みあがる。
そしてその土台は、人を育てるだけじゃなく、
自由と可能性を奪う檻にもなる。
だから囚われるのは、たぶん普通だ。
痛みを学習して、過去に縛られて、動けなくなるのは、むしろ人間として自然なんだと思う。
それでも、囚われずに逃げて笑える人がいる。
あるいは、囚われ切る前に、少しだけ外へ出られる人がいる。
それは異常なんかじゃない。
弱さでもない。
たぶん、自由だ。
フォレストのように笑えない私たちは、
だからこそ問われているのかもしれない。
痛みを抱えたまま、
囚われたまま、
それでもどこまで逃げられるのか。
どこまで自分を外へ連れ出せるのか。
幸せは、悲しみの上に咲く花なんかじゃない。
悲しみに縛られたまま、それでも一瞬だけ笑えてしまう現実のことなんだと思う。




