命令は聞ける。けれど、責任を隠したお願いは聞けない。
「分かって欲しい」なんて論外だ。
分かって欲しいって何だろう?
命令やお願いなら、相手の意図を知ることが出来る。
でも、「分かって欲しい」って・・・恋愛ならまだギリ分かる。
どれだけ忖度しても答えにたどり着ける自信が無い。
私は人の感情が分からないから・・・
優しい言葉ほど、無責任なことがある
「お願いだから」がしんどい理由。命令のほうがまだ誠実だと思う話
世の中では、命令する人より、
お願いしてくる人のほうが優しいことになっている。
強く言う人より、
柔らかく頼む人のほうが感じが良いことになっている。
そして、
「分かって欲しい」と言う人は、
傷ついた側で、繊細で、真っ当な人みたいに扱われやすい。
でも、私はずっとそこに違和感があった。
むしろ逆じゃないかと思うことが多かった。
命令のほうが、まだ筋が通っている。
お願いのほうが、よほど無責任なことがある。
「分かって欲しい」は、相手に責任を押し付ける言葉になりやすい。
そんなふうに感じる場面が、
仕事でも、人間関係でも、何度もあった。
今日はその違和感を、
ちゃんと言葉にしてみたいと思う。
命令は乱暴でも、責任を持つという表明がある
命令と聞くと、あまり良い印象はないと思う。
偉そう。
高圧的。
支配的。
上から目線。
たしかに、その通りな部分もある。
命令には圧がある。
重さがある。
言われた側は気分の良いものではない。
でも、それでもなお、命令にはひとつだけ・・・
お願いよりも明確なものがある。
それが、責任だ。
「これをやれ」
「こうしろ」
「これで進めろ」
命令するというのは、
相手を動かすということだ。
相手に負荷をかけるということだ。
その結果、失敗もあれば、不満もあるし、反発だって返ってくる。
それでも言う。
それでも指示する。
ということはつまり、
少なくとも建前の上では、
命令する側が責任を持つという表明なんだと思う。
有名な言葉を借りるなら、まさにあの感じだ。
「撃って良いのは、撃たれる覚悟のある奴だけなんだ」
命じて良いのは、
命じた結果を自分に返される覚悟がある人間だけだ。
だから命令は怖いけれど、
まだ分かりやすい。
誰が言ったのか。
誰が決めたのか。
誰に返せばいいのか。
そこが見える。
この「見える」というのは、案外大きい。
「お願いだから」は、優しさじゃなく責任回避になることがある
一方で、お願いはどうだろう。
「お願いできる?」
「できたらでいいんだけど」
「無理なら仕方ないんだけどさ」
「ちょっと頼んでもいい?」
言い方は柔らかい。
角も立ちにくい。
いかにも優しそうに聞こえる。
でも、ここにずっと引っかかっていた。
お願いって、
やってもらうことは求めるのに、責任は持たない形になりやすい。
できたら、相手の善意のおかげ。
できなかったら、
「いや、お願いしただけだし」
「無理なら仕方ないって言ったよね」
で終われてしまう。
これ、かなり便利なんだよね。
人を動かしたい。
でも、命令した責任は持ちたくない。
失敗した時に、自分の指示だったとは言いたくない。
相手が動かなかったとしても、強制はしていないと言いたい。
その逃げ道を、
優しい言い方で確保しているように見えることがある。
つまりお願いは、
優しい顔をしているけれど、
責任を受けない指示
になりやすい。
ここがしんどい。
命令なら、まだ腹を立てやすい。
「ああ、この人が言ったんだな」と分かるから。
でもお願いは違う。
断ると、こちらが冷たく見える。
空気が悪くなる。
気が利かない人みたいに扱われる。
善意が足りない人みたいに見られる。
だからお願いは・・・
柔らかいのに逃げ場がない。
そのしんどさを、優しい言葉は隠してしまう。
そのせいで、凄く息苦しくなってしまうのは私だけなんだろうか・・・?
「分かって欲しい」は、理解できない責任を相手に押し付ける
そして、もっと厄介なのがこの言葉だと思っている。
「分かって欲しい」
この言葉は、とても切実に聞こえる。
苦しさや寂しさもにじむ。
だから否定しづらい。
むしろ、否定したら自分が冷たい人みたいに感じてしまう。
でも、この言葉もまた、
かなり危うい構造を持っている。
なぜなら、
理解できなかった責任を相手に押し付ける言葉になりやすいからだ。
本来、何かを伝えるなら、
まず責任があるのは伝える側のはずだ。
どう言えば伝わるか。
何を省かずに話すか。
どこで誤解されるか。
どんな言葉を選ぶか。
その責任を引き受けた上で話すのが、本来の順番なんだと思う。
なのに、
それを飛ばして
「分かって欲しい」と言われると、分からない側が悪者になりやすい。
察せない人。
冷たい人。
鈍い人。
思いやりのない人。
でも、違うはずだ。
分かることは義務じゃない。
理解は強制できない。
共感は命令できない。
それなのに「分かって欲しい」は、その義務のないものを、
相手の責任に変えてしまう。
だから私は、この言葉がしんどい時がある。
切実な言葉だからこそ、なおさら重たい。
そして、重たいくせに責任の向きが曖昧なんだ。
本当に怖いのは、強い言葉じゃなくて、責任を隠した言葉かもしれない
世の中はよく言う。
命令するな。
もっとやさしく言え。
気持ちを分かってあげろ。
察してあげろ。
思いやりを持て。
もちろん、それがちゃんと成立する関係もあると思う。
断っても責められない関係。
分からなくても怒られない関係。
お互いに責任の線を越えない関係。
そういう相手なら、
お願いも優しさになるし、
「分かって欲しい」も対話の入口になる。
でも、現実はそんなにきれいじゃない。
職場でも、家庭でも、人間関係でも、
責任を取りたくない人ほど、
やさしい言い方を使うことがある。
「お願いね」
「できる範囲でいいから」
「このくらい分かるよね?」
「普通ここまで言わなくても察するよね?」
こういう言葉のほうが、
怒鳴り声より長く残ることがある。
強い言葉は傷として見えやすい。
でも、責任を隠したやさしい言葉は、
こちらが悪いのかもしれないと錯覚させる。
それが一番やっかいだ。
だから私は、命令のほうがまだ誠実だと思ってしまう
誤解してほしくないのは、
命令が好きだと言いたいわけじゃない。
命令は重い。
嫌だ。
怖い。
疲れる。
でも、それでもなお、
お願いや「分かって欲しい」より、
まだましだと思う時がある。
なぜなら命令には、
責任の所在が見えるからだ。
誰が言ったのか。
誰が決めたのか。
誰が引き受けるのか。
そこが見える。
でもお願いは見えにくい。
「分かって欲しい」は、もっと見えにくい。
見えない責任は、
気づかないうちに相手へ流れていく。
だから人は疲れる。
だから苦しくなる。
だから、やさしい言葉なのに息苦しくなる。
私はたぶん、
命令が好きなんじゃない。
責任を隠して人を動かす言葉が嫌いなんだ。
ただ、それだけなんだと思う。
優しさより先に、責任を見たい
言葉の温度と、誠実さは一致しない。
冷たい言葉でも誠実なことはある。
やさしい言葉でも無責任なことはある。
命令は、命令する側が責任を持つという表明だ。
お願いは、責任を受けない指示になりやすい。
「分かって欲しい」は、理解できない責任を相手に押し付ける常套句になりやすい。
だから私は、
やさしい言い方かどうかより先に、
その言葉の責任を誰が持つのかを見たい。
本当に優しい人は、
口調が柔らかい人じゃない。
自分の言葉の責任から逃げない人だと思う。
やさしい口調で責任を逃がすくらいなら、
重たい言葉でも責任を引き受けるほうが、
まだ誠実だ。
そういう人の言葉なら、私はまだ聞ける気がする。




