映画を見ていて、たまに胸の奥を静かに刺してくる作品がある。
派手に泣かせようとしてくるわけでもない。
分かりやすく「感動しました」で終わるわけでもない。
でも見終わったあとに、じわじわと自分の中に残り続ける。
幸せとは、「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれない
私にとって『フォレスト・ガンプ』は、まさにそういう作品だった。
見ながら思った。
幸せとは、悲しみと苦しみの上にしか生まれないのかもしれない、と。
さらに言えば、
幸せそのものが、絶対的な価値じゃなくて、
相対的な価値なのかもしれないとも思った。
戦争を知った。
批判を知った。
好きな人と離れる現実を知った。
失うこと、届かないこと、壊れてしまうことを知った。
だからこそ人は、
「そうじゃない」時間に触れた時、笑えるのかもしれない。
今日はそんな、
『フォレスト・ガンプ』を見て感じた幸せの正体について書いてみたい。
あと・・・余談だけど、トムハンクス良い体してます笑
『幸せ』は、最初から置いてあるものじゃない
世間で語られる幸せって、どこか足し算みたいだ。
愛を手に入れる。
成功を手に入れる。
家族を手に入れる。
安心を手に入れる。
夢を手に入れる。
何かを増やして、何かを得て、何かを掴んで、
その先に幸せがあるように語られる。
でも『フォレスト・ガンプ』を見ていると、
そんな分かりやすい足し算の話には見えなかった。
むしろ逆だった。
失う。
離れる。
届かない。
理解されない。
時代に振り回される。
それでも生きる。
フォレストの人生って、決して「恵まれていたから幸せだった」という話じゃない。
むしろ理不尽や喪失や不在を抱えながら、それでも前に進んでしまう人生だったと思う。
だからこそ、彼の中にある幸せには軽さがない。
ただ楽しいとか、ただ満たされるとか、そういう単純なものじゃない。
苦しみを知ったあとに、それでも大切だと思えた時間みたいなものに見えた。
悲しみと苦しみを知ったから、「そうじゃない」が見えた
今回いちばん強く思ったのはここだった。
幸せとは、悲しみと苦しみの上にしか生まれないのかもしれない。
これは、不幸を美化したいわけじゃない。
苦しめば苦しむほど偉い、みたいな話でもない。
ただ、現実として思う。
戦争を知らなければ、平穏の重さは分からない。
批判を知らなければ、受け入れられることの温度は分からない。
好きな人と離れる現実を知らなければ、一緒にいられる時間の尊さは分からない。
つまり人は、
「こうであってほしくない現実」を知ったあとで、
ようやく「そうじゃない今」に触れた時、幸せを感じるのかもしれない。
ここがすごく切なかった。
だって、それは幸せが単独で存在しているんじゃなくて、
悲しみや苦しみや喪失との比較の中でしか、形を持てないということだからだ。
何か特別なものを手に入れたから笑えたんじゃない。
最悪ではない今に、ふっと触れられたから笑えた。
壊れていない。
失い切っていない。
離れたままじゃない。
その「そうじゃない」が、人を笑わせるのかもしれない。
手に入れたのは、失ったものそのものじゃない
ここで、もう一つ思ったことがある。
フォレストたちが手に入れたものって、新しい何かだったんだろうか?
私は少し違う気がした・・・
手に入れたのは、失ったものそのものじゃない。
でも、失ったことによってしか見えない価値の形だったんじゃないかと思った。
離れる現実を知ったから、一緒にいる時間がただの時間じゃなくなった。
痛みを知ったから、笑えることがただの明るさじゃなくなった。
批判や暴力や孤独を知ったから、静かな優しさがご褒美みたいに見えた。
つまり、取り戻したわけじゃない。
全部元通りになったわけでもない。
何も無かったことになったわけでもない。
それでも笑えたのは、
「そうじゃない」を手に入れたからなんじゃないかと思った。
ここがとても残酷で、とても本当っぽい。
人は何かを加算したから幸せになるんじゃなくて、
喪失を知ったあとで、
まだ残っているもの、まだ壊れていないもの、まだ触れられるものに気づいた時、
ようやく幸せを幸せとして受け取れるのかもしれない。
幸せは、絶対的価値じゃなく、相対的価値なのかもしれない
だから私は思った。
幸せすら、相対的価値なのかもしれない。
絶対にこれが幸せです、という形があるんじゃない。
誰が見ても同じ幸福があるんじゃない。
そうではなくて、人は自分が通ってきた悲しみや苦しみや喪失によって、
幸せの輪郭をあとから知っていくんじゃないかと思う。
そう考えると、幸せって少し不思議だ。
明るい感情なのに、影がないと見えない。
温かい感情なのに、冷たさを知らないと分からない。
安心みたいな顔をしているのに、不安を知っている人にしか深く届かない。
「幸せは」
悲しみが消えた状態じゃない。
苦しみが無かったことになる状態でもない。
悲しみや苦しみを知った上で、
それでもなお、目の前の何かを大切だと思えた瞬間のことなんだと思う。
『フォレスト・ガンプ』の笑顔が静かに刺さるのは、きっとそこだ。
あの笑顔は、何も知らない人の笑顔じゃない。
傷つかなかった人の笑顔でもない。
失わなかった人の笑顔でもない。
ちゃんと痛みを通ってきた人間が、
それでも少しだけ笑えた顔だったから、あんなに残るんだと思う。
だからこそ、幸せは綺麗ごとじゃない
私はたぶん、幸せってもっとキラキラしたものだと思い込んでいた。
満たされること。
報われること。
手に入れること。
欲しかったものがちゃんと自分のものになること。
でも『フォレスト・ガンプ』を見ていたら、
幸せってそんな綺麗な完成品じゃない気がしてきた。
むしろ幸せは、
悲しみと苦しみの跡の上に、あとからそっと乗ってくるものなのかもしれない。
無傷のまま辿り着くものじゃない。
何も失わずに手に入るものでもない。
だからこそ、綺麗ごとじゃない。
人は、何かを手に入れたから笑うんじゃない。
失う現実を知ったあとで、
まだ失っていないものに触れた時、ようやく笑えるのかもしれない。
そう思った。
そして、それは少し寂しいけれど、
同時にすごく優しいことでもある気がした。
だって、完璧じゃなくてもいいから。
全部持っていなくてもいいから。
壊れたことがあっても、離れたことがあっても、
それでもまだ、幸せは感じられるかもしれないから。
幸せとは、「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれない
『フォレスト・ガンプ』を見て思った。
幸せとは、悲しみと苦しみの上にしか生まれないのかもしれない。
さらに言えば、幸せすら相対的価値なのかもしれない。
戦争を知った。
批判を知った。
離れる現実を知った。
失うことを知った。
だからこそ、
そうじゃない時間。
そうじゃない空気。
そうじゃない事実に触れた時、
人は幸せそうに笑えるのかもしれない。
手に入れたのは、失ったものそのものじゃない。
でも、失ったからこそ見える価値の形だった。
だから笑えた。
だから、あの静かな幸福が胸に残った。
幸せは、人生が優しかった証拠じゃない。
人生が残酷でも、それでもなお大切だと思えた時間のことなんだと思う。
そして私は、そんな幸せなら少し信じてみたいと思った。





