生物としては、人間は群れの動物で、幼少期は単独で生存しづらい。
だから子どもは「一緒に居たい」というより、一緒に居ないと死ぬに近い。
一方で親は、子を守るために「一緒に居る」を選ぶ。
でも同時に、個体としては「一人の時間」が必要になる。
ここで起きるのは、愛の矛盾じゃなくて、生存要件の衝突。
子は「近接」を求める。
親は「近接」と「離脱」を同時に求める。
どっちも正常。だから・・・悲しい。
最初の世界
人と一緒に居るのって、地味で面倒じゃない?
正直、人と一緒に居るのって面倒だ。
気を使う。
疲れる。
距離感を測り続ける。
黙れば気まずい。
話せばズレる。
だから思う。
「地味で面倒でも、人と一緒に居ないとダメなの?」って。
でも一方で、完全に一人だと落ち着かない日もある。
この矛盾が、もう人間っぽい。
その矛盾、親子の間で一番ハッキリ見える
矛盾が一番むき出しになるのが、親子だと思う。
子どもは「親と一緒に居たい」と思う。
親は「自分一人の時間が欲しい」と思う。
ねぇ、これって冷たいの?
親失格なの?
……違う。たぶん、これは“人間の仕様”なんだ・・・
ここだけ切り取ると冷たく見えるけど、たぶん違う。
子どもが求めるのは、愛情というより安心。
・目が届く距離
・声が届く距離
・戻れる距離
それがあるだけで、世界は少しマシになる。
子どもにとって「一緒に居る」は、
「甘え」じゃなくて生存の設計みたいなもの。
親だって人間だ。
気を張り続ければ疲れる。
ずっと“誰かのため”で居れば、息が詰まる。
一人になりたいのは、逃げじゃない。
むしろ、壊れないためのメンテナンス。
「離れたい」と思う瞬間があるのは、
愛がないからじゃなくて、人間だから。
つまり同じ出来事を、子どもは“生存”として求め、
親は“維持”として距離を必要とする。
同じ家にいて、同じ時間を過ごしてても、
見えてる世界が違う。
まさに「異国」。
それでも結局、人生を変えるのは“他人”だった
ここで、私が最近いちばん痛感したことがある。
人生を変えるのは、言葉でも、環境でも、状況でも、習慣でもなく・・・
他人なんだって。
なぜなら、言葉も環境も状況も習慣も、大概の場合「他人」が運んでくるから。
・誰かの一言で、価値観が変わる
言葉は、他人の口から出る。
・誰かの都合で、生活が変わる
環境は、他人が作っている。
・誰かとの摩擦で、習慣が変わる
状況は、他人の都合で変わる。
人間は、自分だけで完結してない。
どれだけ「自分の人生」って言っても、他人の存在に触れた瞬間に自分の意思に関係なく変えられてしまう。
面倒で、窮屈で、正直気乗りしないけど・・・
誰か、自分以外の存在と関係した瞬間に、自分が更新されてしまう。
そして、その“最初の他人”は誰?
ここまで来ると、次の問いが出てくる。
「人格を最初に作り上げるのは誰?」
親?それとも本人?
私は、最初は親だと思う。
本人は、生まれた瞬間には世界を選べない。
どの家に生まれるかも、誰に触れられるかも選べない。
だから最初に入る情報は、ほぼ強制的に刷り込まれる。
いわゆる・・・インプリンティングみたいに。
そしてその刷り込みが、
「普通はこうだよね」
「こうしたら怒られる」
「こうしたら愛される」
みたいな認知のクセ(バイアス)になっていく。
本人が「自分で自分を作る」のは、もっと後。
だから「最初の世界」は、ほぼ親が作ってしまうと、感じている。
でも「親」って、肉親のことじゃない気がする
でも、ここが大事。
親は、血のつながりだけじゃない。
育てた人だけでもない。
施設や里親でもいいだろうし、あるいは祖父母でも、兄姉でもいい。
血のつながりより、役割の方が大きい。
私が思う親という存在?立ち位置?は・・・
親=最初に世界を代表した人。
「この世界は安全だよ」
「この世界は怖いよ」
「こうしていれば愛されるよ」
「こうしたら捨てられるよ」
そういう“世界の見え方”を最初に渡してくる存在。
それが親。
「親」という漢字が、全部を説明してる気がする
ここで、「親」という漢字が妙に刺さる。
親という字。
よく「木の上に立って見る」って言う。
でも私は、
「木の上に立っている姿を見ている」
とも取れると思ってる。
どっちにせよ、共通してるのは・・・観察者ってこと。
親は子を見ている。
子は親に見られている。
その「見られている感覚」が、
いつか子どもの中に移植される。
親がいなくなっても、
子は“親の目”で自分を見てしまう。
だから親って、育てる人である前に、
子どもの中に「自己観察の目」を作る存在なんだと思う。
地味で面倒でも、人は他人で変わる
だから最初の問いに戻る。
地味で面倒でも、人と一緒に居ないとダメなのか?
「ダメ」ではない。
でも、人は他人に触れることでしか、更新できない部分がある。
そしてその最初の他人が親で、
親という観察者の目が、
自分の“内側の目”になっていく。
シンプルフレーズ
親・人の目は、檻にも灯台にもなる。
だから私は、灯台を目指す人でありたい。


