「助けてほしい」って言葉は、
本当は、弱さじゃない。

生き延びたいっていう、
ただの本能だ。

 

でもさ。
助けが来ないとき。
人は、世界を悪にする。

 

その瞬間、自分の心の中に
“敵”が増え始める。

前回の続きとして言うなら・・・
救済と悪認定は、切り離せない回路なんだ。

「救済」という名の鎖を断ち切れ

 

「誰か助けて」と空を見上げている間、君の首には見えない鎖がつながっている。 

その鎖の先を握っているのは、SNSで君をあざ笑う誰かか、

あるいは君を「かわいそうな弱者」として利用したがる、どこかの誰かだ。

「自分を不幸だ」と名乗った瞬間、君は他人の顔色をうかがう家畜になる。

 誰かに正義を求めている限り、君は一生、その誰かの「悪」に縛られ続けるんだ。

 

自由っていったい何だい? 自由になりたくないかい? 

(尾崎豊『Scrap Alley』より)

 

自由とは、誰かに優しくされることじゃない。 

誰からも期待されず、誰のせいにもせず、ただ一人で闇の中に立っていることだ。

 

 

  「正しさ」という名の窓ガラスを叩き割れ

 

善悪は、神の判決じゃない。
多くの場合、権力のラベルだ。

 

多数派が貼る。
構造が貼る。
社会が貼る。

従わないものに、「悪」を貼る。

貼った瞬間に、排除が正当化される。

 

勝った奴が「正義」という旗を振り、負けた奴が「悪」という泥水をすする。 

そんな出来レースの物語に、君の貴重な感情を1ミリだって預ける必要はない。

 

不幸をスパイスにして愉悦に浸る世界なら、こっちだってその「不幸」をゴミ箱に捨ててやればいい。 

自分を正当化するための理由なんて、もう探さなくていいんだ。 

**「悪いのは俺じゃない、世界だ」**なんて叫ぶのは、もう卒業かもしれないね。

 

そんな「負け犬の遠吠え」を、世界は一番喜んで消費するのだから。

  支配からの卒業

 

だから、「悪だ」と言うのは負け犬の遠吠えじゃない。
まずは強者の特権なんだ。

・・・でも面白いのは、ここから。

弱者も、貼り返す。

「私は正しい」
「だから世界が悪い」

この瞬間、
善悪は裏表になる。

 

たとえ弱者だろうが、孤独だろうが、 「俺を救えるのは、俺だけだ」 そう腹の底から思えたとき、君はもう誰にも捕まらない。 他人が書き換えた過去も、押し付けられた恩義も、全部バイクの後ろに乗せて、夜の向こうへ置き去りにしてしまえ。

 

  不幸は、消えない。だから物語の主役になる

 

幸福は溶ける。
消える。
後に残るのは、ベタつき。

恩も消える。
忘れる。


でも押し付けられた恩は消えない。
残るのは、引け目と負債。

一方で、不幸は消えない。

消えないどころか、次から次へと襲ってくる。

だから人は、不幸を材料にして、物語を作る。

 

事実を脚色する。
意味を足す。
人生の糧にする。

・・・ここまでは、まだいい。

 

問題は、その糧が「正当化」に変わるとき。

「悪いのは私じゃない」
「誰かが悪いんだ」

不幸が、正義になる。
正義が、敵を呼ぶ。

 

世界を壊すんじゃない。
世界に従う自分を壊す。

これが革命。

 

  十五の夜は、まだ終わらない

 

大人たちは「現実を見ろ」と言う。 

でも、彼らが見ている現実なんて、誰かが作った都合の良い物語だ。

君が感じているその「痛み」や「苦しみ」は、物語の材料にするためのものじゃない。 

君が生きているという、たった一つの、熱い証拠・・・

 

幸せがアイスクリームのように溶けて消えても、 孤独という風がどれだけ冷たくても、

自分の足で立っている限り、君は「強者」の支配から逃げ切れる。

 

さあ、スマホを消して、自分だけの夜へ。 


「運命」なんていう言い訳を笑い飛ばしながら、誰もいない道を走り抜けようぜ。

 

・・・まだ世界は不条理だ。
でも、従わないだけで景色は少し変わる。

私たちは、殴らなくても反抗できる。

 シンプルフレーズ

「世界で生きなくていい。世界に従う自分を壊せ。」