皆さん、こんにちは。
今日は、大正・昭和を代表する詩人、佐藤春夫のちょっと切ない一節から、
私たちの「生きづらさ」の正体をのぞいてみましょう。
なぜ「幸せ」は一瞬で、「不幸」はずっと居座るのか?
幸せはアイスクリーム、不幸はダイヤモンド?
佐藤春夫は、こんなニュアンスのことを書き残しています。
「幸福はアイスクリームのように溶けやすいから、すぐ忘れてしまい、詩や物語の材料にならない」
これ、核心を突きすぎていませんか?
美味しいものを食べた喜びや、恋人と過ごした穏やかな時間は、口の中で溶けるアイスのようにあっけなく消えてしまいます。
後には「なんだか甘かったかな?」という、ぼんやりした記憶(残滓)が残るだけ。
逆に、**「不幸」や「怨嗟(えんさ:うらみ嘆くこと)」**はどうでしょう?
これらは溶けるどころか、時間が経つほどカチカチに固まり、私たちの心に居座り続けます。
だからこそ、ドラマや小説のネタになりやすい。
私たちは、消えない「苦しみ」を材料にして、自分の人生という物語を必死に編み上げているわけです。
「恩」を売る人、捕食される弱者
さらに厄介なのが、人間関係のドロドロです。
私たちは、受けた恩を忘れるくせに、人から押し付けられる「お節介」には敏感です。
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エゴイストの正体: 「助けてあげる」という善意の顔をして、実は相手を自分より「下の存在」として固定し、優越感に浸る人々。彼らにとって、他人の不幸は最高のスパイスです。
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弱者のリアル: 押し付けられる側は、ただ振り回されるだけ。多数派のルール(公共性)という名のもとに、自分の感情や記憶さえも、都合よく書き換えられて(改ざんされて)しまいます。
まさに「人は、人にとって狼である(Homo homini lupus)」という古い言葉通り・・・
微笑みながら近づき、相手を都合よく利用する捕食者のような側面が、人間にはあるのです。
「運命」という名の、自分への言い訳
私たちは、自分の不幸を「誰かのせい」にしたり、あるいは「これは運命なんだ」と呼んだりします。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみると、残酷な真実が見えてきます。
「運命とは、自分の愚行(バカな行い)の別名である」
耳が痛いですね。
でも、そう思わないとやっていられないのが人間です。
自分のミスを「運命」という大きな言葉でラッピングして、「悪いのは私じゃない、世界が不条理なんだ」と正当化する。
そうやって、過去を自分勝手に彩り、利己的に生きていくこと。
それは、決して「間違い」ではありません。
そうでもしないと、一瞬で溶けて消えてしまう幸福を追い求めて生きていけるほど、私たちは強くないからです。
狂気の一歩先へ
天才は狂気の一段上にいる、なんて言われます。
もし、今の世界が「最低だ」と感じるなら、それはあなたが世界の不条理を真っ直ぐに見つめている証拠かもしれません。
全部やり直したい、記憶を書き換えたい——。
そう思うほど辛いときは、いっそ「極限の開き直り」を持って、
この不条理な世界をあざ笑うくらいが丁度いいのかもしれません。
どうせ幸福は溶けてしまうのですから、せめて自分だけの「都合の良い物語」を、明るく、図太く、書き換えていこうではありませんか。
シンプルフレーズ
幸福は溶けて消えてしまう。
後に残るのは、残骸か、残滓か。
甘さじゃない。手のベタつきだ。
恩も忘れてしまう。
けれど、無理やり押し付けられた恩は忘れられない。
残るのは、感謝じゃない。
お節介か、相手への引け目だ。
――つまり「負債」だ。
不幸はいつまでも残る。
消える間もなく次から次へと現れて、襲い来る。
それは苦行か、人生か。
もはや違いが分からない。
人は後から物語として語ることで、事実を脚色して、意味を追加して、人生の糧にしていく。
そのはずだ。
でも人は利己的な生き物で、自分勝手に都合の良い解釈で彩っていく。
そのとき残っているのは、いつも不幸と悲しみと苦しみ。
だって消えないから。
そこにばかりフォーカスして、残している。
そして正当化が始まる。
悪いのは私じゃない。誰かが悪いんだ。
言い出す始末。
自分の不幸は最悪だ。
でも、人の不幸は蜜の味。
利己的な人間が他人の不幸をスパイスにして愉悦に浸るのは、きっと合理的な生存戦略なんだろう。
そうでもしないと、世界は不条理すぎる。
人は、消えてしまう幸福を求めて生きていけるほど強くない。
自分のためだけに生きられるほど強くない。
だから、他人を理由にして、他人に都合を押し付けて、エゴイストに生きていくのは、間違いじゃない選択なんだろう。
……だからといって。
押し付けられる側になったら最悪だ。
振り回す方はいい。
私たち弱者は、常に振り回される側だ。
他人の都合を与えられる側なんだ。
他人が都合よく改変した過去も、事実も、悲しみも、苦しみも。
全部、押し付けられる。
最低だ。
ポリスと他者性と公共性が、無理やり押し付けてくる。
多数派が強者の社会契約論は、弱者とマイノリティを活かさない。
――活かさないどころか、「黙れ」に変換する。
そして弱者に残るのは、いつも不幸だけ。
私の感情を改変して、記憶を改ざんして、都合よくするには。
きっと全部やり直すしかない。
そう思ってしまうのは、仕方のないことだろう。
天才は、狂気の一段上に居るらしいじゃないか。
もう一歩踏み出したら、変わった世界の見方で過ごせるのかもしれないね。
ただ、大抵の場合・・・
運命って呼ぶのは、自分の愚行らしい。
そこが、いちばん辛いところさ。


