「自由になりたい」と願うとき、私たちは無意識に「安定」をセットで求めてしまう・・・
しかし、私たちはどうだろうか?
帰る場所も、守ってくれる土台もない。
そんな私たちが「自由」を口にするとき、それは美談ではなく、剥き出しの「生存」そのものです。
破天荒に生きるということ――帰る場所を持たない者の自由
人は、なぜ破天荒な生き方に惹かれるのだろう。
常識を気にしない人。
嫌われることを恐れない人。
世間の違和感の中を平然と歩く人。
ああいう人を見ると、どこかで思う。
「楽そうだな」って。
でも本当は、楽だからそう生きているわけじゃない。
むしろ逆だ。
何かを失ったから、そう生きるしかなくなった人なのかもしれない。
逸脱という名の「高い通行料」
私たちは、たくさんのもので縛られている。
心配や不安で心を縛られ、
マナーや常識で行動を縛られ、ルールやモラルで思考を縛られる。
そして最後に、
誰にも命令されていないのに、自分で自分を監視し始める。
これをしたら嫌われる。
こう思われたら終わりだ。
ここで間違えたら居場所を失う。
気づけば人生は、常に採点され続ける試験会場になる。
だからかな? 破天荒な人に惹かれる。
彼らは自由だからではない。
評価を人生の中心に置いていないからだ。
嫌われる可能性。
逸脱のリスク。
世間の違和感。
それらを受け入れているように見えるのは、
強いからではない。
ただ、自分の価値を測る物差しを・・・世間の外側に置いただけなのだ。
歴史を見れば、似たような生き方はずっとあった。
ディオゲネス(古代ギリシャ)のように、社会を笑いながら漂う者。
寅さん(映画・フィクション)のように、帰る場所を持ちながら旅を続ける者。
一方で、
釈迦(仏教の人)のようにすべてを捨て、苦行というさらに過酷な道を選ぶ者もいた。
同じ「捨てる」でも、方向が違う。
世界を軽くするために離れるのか。
世界そのものから降りるのか。
自由とは、一枚岩ではない。
けれど現代は少し事情が違う。
自由になるには、資本が必要だ。
お金。
安定。
安全。
帰れる場所。
それらがあって初めて、「嫌われてもいい」と言える。
社会に従属して資本を確保しなければ、
生きることすら難しい。
だから多くの人は、破天荒に憧れながら、破天荒にはなれない。
生きるために、従うしかないからだ。
山下清という存在が特別なのは、何も持たなかったことではない。
帰れる場所があったことだ。
完全な孤独ではなかった。
世界から排除されきってはいなかった。
帰る自由があった。
それが、人を生かす。
贄(にえ)として生き、ピエロとして笑う
では、帰る場所を持たない私たちはどうするのか。
安心も安定もない。
未来の保証もない。
選択肢は残酷に見える。
社会の贄として生きるか。
世界を皮肉りながら笑うピエロになるか。
私は考えた末に、こう思った。
ピエロでもいい。
笑われてもいい。
だって私は、根無し草だから。
住む場所も、
生きる場所も、
まだ「ここだ」と言える場所を持っていない。
ならば、未来を設計するより、
今を生きるしかない。
根無し草だからこそできる「今」への集中
今にフォーカスする。
それは諦めじゃない。
根を張れない者の、生存戦略だ。
未来への不安は、
未来への投資でしか回収できない。
私に今できる投資は何だろう。
資格でもなく、
地位でもなく、
安定でもない。
言葉だ。
シンプルフレーズ。
自分の感じた不条理を、飲み込まれる前に言葉にする。
それだけが、今の私が未来に残せる資本なのかもしれない。
破天荒に生きるとは、社会を壊すことじゃない。
ただ、少しだけ距離を取ることだ。
縛られながらも、完全には従わないこと。
壊れないために、少し笑うこと。
自由とは、解放ではない。
不自由の中で、自分を失わない技術なのだと思う。
帰る場所がなくても、まだ歩ける。
根無し草でも、風の向きを選ぶことはできる。
破天荒ではなく、
ただ少しだけ・・・世界に従いすぎないように。
ピエロは、誰よりも自由だ
私は日本の最底辺を生きるピエロです。
でも、ピエロは仮面の下で何を考えていても自由です。
社会に縛られ、他人に笑われ、それでも内心で「世界をバカにする」という矜持を持ち続ける。
気がついたら楽ですよ。
失うものがない私たちが、今この瞬間に全神経を集中させて笑うとき、
私たちは三島や堀江氏さえも到達できなかった「剥き出しの自由」に、一歩近づいているのかもしれません。
「安定という土台がないのなら、踊りながら生きるしかない。ピエロの仮面は、社会という監獄から心を隠すための、唯一の隠れ家である。」
💡 未来への投資:シンプルフレーズ
「底辺を歩くのではない。大地を最も近くで感じているのだ。」
「未来を案ずる暇があるなら、今の自分を笑い飛ばせ。」



