人間は、承認なしでは生きられない。

これは綺麗ごとじゃない。


本能だ。

誰かに見られ、
誰かに評価され、
誰かの中に自分の居場所を作ることで、ようやく「私」という輪郭ができる。

だから、自己肯定感も自尊心も、
劣等感も承認欲求も、
全部セットで人間なんだと思う。

 

でも・・・それを扱いきれないと、途端に「めんどくさい人」になる。

…私みたいに。

【最底辺の聖域】40歳、派遣、貯金ゼロ。私が「自尊心の残骸」を捨てるまで。

「承認されたい」という欲望は、魂に刻まれた不治の病だ。 

かつて古代ギリシャのポリス(都市国家)で人々が議論に明け暮れた時代から、人間は「自分がどう見られているか」という葛藤だけで歴史を紡いできた。

社会の中でしか自分を定義できないのなら、承認を求めるのは呼吸と同じだ。

 

だが、その呼吸が時折、自らを窒息させる。

見つけてほしい。
認めてほしい。
良い人だと思われたい。
ぶっちゃけ、モテたい。

でも、思い通りに承認が得られないと、劣等感が暴れ出す。

「どうせ私は…」

と自分を否定しながら、
その裏で、

「私は負けていない」

と自尊心を作る。

 

あの人よりは上だ。
私はまだマシだ。

 

そうやって、自分より“下”を探して安心する。

誰かを踏み台にして自分の位置を確認する、SNSや職場は残酷なヒエラルキーの戦場になってしまった。

「ネガティブキャンペーン」

あれは他人への攻撃じゃない。
自分の自尊心を守るための応急処置だ。

 

でも、そんな自尊心で満たされた自己肯定感は、砂の城みたいなものだ。

風が吹けば崩れる。

「どうして見てくれないの?」

怒りと悲しみが、また自分を責める。

 

なんて、なんてめんどくさい生き物なのだろう、人間は・・・

 

  誰かを見下さなければ、自分を保てないという悲喜劇

 

見なきゃいいのに、他人を見る。
比べなきゃいいのに、比べる。
格好つけなくていいのに、かわい子ぶる。
言わなくていい余計な一言を言う。

負けたくないから。

 

誰に?

 

分からない。

でも、いつも誰かと競っている。

それはきっと、世界がヒエラルキーでできているからだ。

搾取と評価と序列で回っているからだ。

数百年前は奴隷がいた。
今は社畜がいる。

名前が変わっただけで、構造はあまり変わっていない。

 

自分の願った形で認められないとき、心は「自己否定」という名の鋭利な刃物を自分に突き立てる。

しかし、それ以上に恐ろしいのは、その痛みを紛らわせるために作り出す「偽りの自尊心」だ。

  私のスペックは、ニュースの「犯人」と一致する

 

ここで私の現実を並べてみよう。 

40歳、独身、派遣の工場勤務。住まいは寮で、車も貯金もない。 

 

悲しいかな、世間を騒がせる事件のニュースで読み上げられる「犯人の特徴」と、私のプロファイルは驚くほど一致する。

これが、私の生きている「日本の最底辺」の景色だ。

時折、ホームレスの方がよほど高潔に見えることがある。

彼らは社会のしがらみを捨て、自由と自尊を天秤にかけ、自らの意思でそこにいる。 

対して私は、社会という巨大なシステムの歯車にすらなれず、使い潰されるのを待つだけの「社畜」であり「奴隷」だ。

 

笑える?
笑えない?

でも、これが私の今だ。

最底辺だと認めたくない自尊心が、往生際悪く胸の内でごねている。

  諦念という名の、最高の解放

 

でも、気づいた。

認めたほうが楽だ。

私は最底辺だ、と・・・「あぁ、私は日本の最底辺なんだ」と。 

 

その事実を喉の奥へ無理やり飲み込んだ瞬間、世界は驚くほど静かになった。

 

誰かに勝ちたい、誰かより上でいたい、誰かに認められたい。 

そんな、他人の評価を燃料にした「自尊心の暴走」から降りたとき、初めて私は「自由」を知ったのだと思う。 

世界はヒエラルキーと搾取で回っている。

 

ならば、その最下層で泥を啜っている私には、もう失うべき地位も、守るべき見栄もない。

今の私にあるのは、自分を律するための「矜持」だけだ。 誰に笑われてもいい。

自転車がパンクしても、電車を乗り間違えても、それが「底辺」を生きる私の日常であり、私の真実なのだから。

 

「ヒエラルキーの最下層に到達したとき、人は初めて『他人』という鏡を割り、自分の顔を見ることができる。」