フンボルトの「他者が必要」
ベンヤミンの「虚飾を剥げ」
バタイユの「整えるな、裂け目に触れろ」
人と人の言葉には、意味がある
でも、その意味は変わってしまう。
意味に意味があるのか?
他人との繋がりを優先することを目指した人たちが居た
自己の中を優先することを目指した人たちが居た
社会を語り、他者を語り、公共を語り、監獄を語り、ヒエラルキーをかたり、意味と価値をその時代時代で説いてきた
私は、全てを失ったと感じたから、色々学べる機会を得た
哲学や思想や小説や名言や格言やスピや自己啓発や他人の価値観
沢山学べた。
その答え?答えは、結局その人の気分次第っていうことかな。誰が何を言おうが、どれだけ正しさを主張しようが、ルールと規範と枠組みとモラルを並べて押し付けようが・・・
結局、その人の気分と匙加減になってしまう。
それが、私が知った答えなんだと思う。
要するに?
どうしたって上手くいかない。
何を知って、何をしたってダメなモノはダメ
正解が無いんじゃなくて、思い通りにはいかないっていうこと。
先日書いたブログの、「聞きたいなら黙れ」知りたいなら「沈黙を知れ」っていう話も同じだ。
何かを成し得ようとするから、苦しいのさ・・・
でも、何もなさないとしても世界は辛いけどね。
その上で、今回の話し
出来ない事に満足したらいいじゃない?っていうこと
誰も彼もが、何かを出来るように、分かるようにしようとする
勉強で良い点数を取ろうと頑張る
仕事で出世しようとする
家庭で認められて、感謝されようとする
地域で存在感を示そうとする
交友関係で優位に立とうとする
良いことだよね。目指すべきことだろうし、人の生きる目的になってもおかしくないことだろう。
他人からの評価を受け入れて、その評価を良いものとして受け入れるって言う事実
それをもって、満足して、満たされて、幸せを感じられるんだろう・・・
ただ・・・私には無理だって言うだけのこと
手に入らなかったって言うだけの話しなんだ
全部奪われたって、言ったら語弊があるんだろうけど・・・
今はなにもない・・・それだけのコト。
だから私は、奪われない為にピエロを演じることにした
軽率で軽薄で、短絡的で、ポンコツ
凄い楽で、生きやすくて、気楽で、自由だ!とは言えない。
ただ、誰からも期待されず、求められず、信用されない。
そんな生き方をどれだけ言い訳して、取り繕って、正当化したって・・・
「良い」とは言い難い。
でも、出来ない事を受け入れて、出来ない事を諦める理由にはなったかな
言い訳を先に用意してしまっただけなんだけど、それでも・・・無理して頑張って自分を演じるよりは
良くも悪くも
奪われて、失うリスクは少なくなった気がする。
出来ない事を受け入れる
って言うと、とっても難しいことで、自己啓発のように聞こえるけど、
私の落としどころは、ピエロ・・・道化・・・
っていう、出来ない事を証明するだけの存在だ。
私のブログはいつだってそうだ。出来ない事を出来るようになることを目指してなんかない。
ありのままを受け入れようっていうことを言っていた時期もあったけど、
諦めるんじゃなく、明らかにして受け入れるんだって言う時もあったけども・・・
変わらないのは
出来ることは出来る事だけ
持てるモノは持てる分だけ
出来ない事を出来るようにするより、自分の出来ることに集中した方がきっといい
食べきれない食べ放題で元を取りに行くより
牛丼の大盛で満腹になった方が
余韻の幸せはあるんじゃない?っていう話。
終わった後にしか、幸せも不幸も善し悪しも分からないんだから、
そこそこに終わらせて、満足してしまうのは良い選択なんじゃないかな?
って、思うのは私だけかな?

