「幸せになりたい」という願いは、

いつからこれほどまでに息苦しい「ノルマ」になってしまったのでしょうか。

 

世の中には、「幸福=善」であり、「不幸=悪」であるという、目に見えない強固な規範が存在します。 

自己実現を目指し、前向きに生き、何かを成し遂げることが「正しい」とされる世界。

 

そこから逸脱し、立ち止まり、何も持たずにいる者は、まるでシステムのバグか、

あるいは「正すべき悪」のように扱われてしまいます。

けれど、本当にそうなのでしょうか。

幸せという名の「魔女狩り」と、バランタインの夜

 

  幸福という名の「踏み絵」

 

古代ギリシャのアリストテレスは、人間がその能力を最大限に発揮することを「幸福」と呼び、哲学者カントは「幸福に値する人間になれ」と説きました。 これらは一見、高潔な教えに見えますが、裏を返せば残酷な選別です。

 

「まともな人間なら、より良くありたいと願うはずだ」というマジョリティの理屈。 

その枠組みから零れ落ちた「持たざる者」は、社会にとっての「政敵」や「異端者」に仕立て上げられます。

 

かつての魔女狩りがそうであったように、世界は「理解できないもの」を「悪」と定義することでしか、自らの正しさを証明できないからです。

不幸な人間には「救いを求めて這いずり回る姿」が要求されます。

 

 なぜなら、そうでなければ「持っている側」が自分の幸福を再確認できないからです。

 

  メインディッシュは、いつも「0」

 

私の人生をディナーに例えるなら、メインディッシュはいつも「0」です。

幼少期の虐待、学校でのいじめ、転職の繰り返し、そして築き上げた会社も家も家族も、すべてが指の間からこぼれ落ちて「0」になる。

 

 現在の私は、派遣寮の一室で、車も貯金もない単身の中年です。

 

社会の物差しで見れば、これは「救いようのない不幸」であり、早急に修正されるべき「悪」の状態かもしれません。

 

けれど、私はこの「不幸という名のテーブル」の上で、静かに笑っていたいのです。

 

  不幸を「幸(さち)」に変換する錬金術

 

私が浮かべるのは、死神のような不気味な笑いではありません。 

 

それは、自分に降りかかる理不尽という「不幸」を、自らの内で噛み砕き、「笑い」というフィルターを通して「幸(さち)」へと精製する、自己完結した儀式です。

今、私の手元には芳醇なバランタイン12年があります。 40種類以上の原酒が複雑に混ざり合うこのウイスキーは、まさに人生そのものです。

虐待、いじめ、破産、断絶――。 

 

それらすべてを「原酒」として自らの樽で寝かせ、熟成させ、最後の一滴まで使い切る。 

「ああ、ひどい味だが、実に奥行きのある人生だ」と一人でグラスを傾ける。 

 

それは、誰にも邪魔されない究極の「主権」の行使なのです。

 

  0の先にあるもの

 

蒸留酒は強い。 飲んでいる間は芳醇な香りに包まれ、意識は至福の「0」へと切り取られます。 

 

けれど、翌朝目覚めれば、待っているのはひどい二日酔いと、昨日と変わらない冷たい現実。

「0の先にあるのは、やっぱり不幸だ」

それが私の、今のところの結論です。 

 

0を通ってもなお、人生という刑期は続いていく。 

不幸を笑って「幸」に変えても、また新しい不幸がテーブルに並ぶ。

 

それでも、私はまたグラスを傾けます。 

この「不幸という名の悪」の中で、どれだけ美しく、どれだけ潔く、自分という存在を使い切れるか。 

その「死に方の学び」を終えるまで、私の夜は続いていくのでしょう。

 

あなたは今、自分のテーブルの上に並んだ「不幸」を、どんな味の酒に変えて飲み干そうとしていますか?

無理に幸せになろうとしなくていい。 

ただ、その不幸を自分なりに「使い切る」ことができたなら、そこには誰にも奪えない自分だけの景色が広がっているかもしれません。