おはようございます。

 

今日も鏡の前で、自分の顔と「お見合い」を済ませてきました。

 

皆さんは、自分の顔、好きですか? 

「嫌いだから見たくない」「写真も撮られたくない」 そんな声をよく耳にします。

でも、ちょっと待ってください。 

 

私たちの顔って、自分だけのものでありながら、実は「世界で一番、自分以外の人に見られている公共物」なんですよね。

鏡に映る自分から逃げない・・・顔は“自己認識の入口”だ

鏡に映る自分を、見たくない日がある。
疲れてる。
荒れてる。
目が死んでる。
口角が落ちてる。
肌も髪も、コンディションが終わってる。

 

見たくない。
うん、分かる。

 

でもさ・・・見たくないから見ないって、何だろう。
それで今日も、外に出て、人と会って、仕事して、笑って、気を使って。


つまり・・・その顔、結局は他人に見せて生きてる。

自分だけが見ないの、ズルくない?

 

  顔は「自分のモノ」だけど「自分だけのモノ」じゃない

顔って、自分のもの。
でも、自分だけで完結しない

だって顔は、

誰かと会話するとき
誰かと食事するとき
仕事するとき
遊ぶとき
怒るとき
黙るとき
全部、他人に向けて“稼働”してる。

だから私は思う。

他人に見せて生きるなら、まず自分が自分を見ろ。

 

でも、鏡を直視して、「今の自分」の状態を把握しているなら話は別です。 

「ああ、今の自分はこういう風に世界に映っているんだな」と。 それが、自己認識の入口

髭を整え、眉を気にし、清潔感を保つ。 

 

それは決して「美しくなりたい」という願いだけではなく、

「自分という人間を、責任を持って社会に差し出す」という覚悟の儀式なんです。

  顔の美醜の話じゃない。これは「状態」の話

 

ここ、勘違いされたくない。

美人かブスか、イケメンかどうか。


そんな話じゃない。

 

顔って「造形」よりも、状態が出る。

・目が死んでる
・眉間が固い
・口角が落ちてる
・呼吸が浅い
・疲れが抜けてない

これ、全部「今の自分」が表に漏れてるだけ。

 

つまり顔は、内面が社会に翻訳される場所

 

ソクラテスの名言は「鏡」の話に近い

ソクラテスの有名な言葉がある。

名言(ソクラテス)
「吟味されない人生は、生きるに値しない」

(プラトン『ソクラテスの弁明』38a)

 

ここで言う「吟味」って、自己否定でも自己肯定でもない。
“自分の今”を見て、問い直すこと

つまり、ソクラテスはたぶんこう言ってる。

「盛るな」でもない。
「美しくなれ」でもない。
「自分から目をそらすな」ってこと。

  願いと希望には「どう思われたいか」が混ざってる

 

人の願いって、「こうなりたい」「これが欲しい」だけじゃない。

 

実は、こっちも強い。

他人からどう思われたいか。

優しく見られたい
頼れると思われたい
明るい人でいたい
怖く見られたくない
変な人だと思われたくない

これが浅いんじゃない。
むしろ当たり前。
社会で生きるなら、自然に持つパース。

 

でも問題は・・・

「どう思われたいか」を気にするわりに、自分の表情や仕草を見ないこと。

 

それ、順番が逆。

他人の目を気にする人ほど、鏡を見るべきだ。

 

  私の例・・・黒髪ロング、うつむいたら即アウト

 

私は黒髪で、そこそこ長い。

これでうつむいて、誰にも顔を向けなかったら、たぶん一発で
「変な人認定」される。

 

だから私は、顔を上げる。
誰とでも話す。
気も使う。

 

その結果・・・チャラいって言われる。
軽薄な存在になる。
良くない。ドンマイ私。

 

でも私はそれでいいと思ってる。
なぜなら、それは「私が選んでる」から。

 

ここが大事。

自分を見ないまま、他人の評価に振り回されてたら、
私はきっと自分を責めてたと思う。

だから私は、鏡を見る。

 

他人の評価に負ける人は、自分の選択をしていない。

 

  鏡は“美醜チェック”じゃない。“自己認識の入口”だ

 

鏡を見るのは、ナルシストじゃない。
自己肯定でも、自己否定でもない。

自己認識。

今の自分は、どんな顔をしてる?
どんな疲れを抱えてる?
どんな世界を見てる?

ここに気づけないまま外に出ると、
他人の一言で心が折れる。

でも、自分で自分の状態を確認していれば、
他人の評価は「情報」になる。
致命傷にならない。

 

  マスクで隠せる時代。でも、外すでしょ?

 

今の時代、マスクや眼鏡で隠すことは容易。

でも外す時は来る。
見せる瞬間は避けられない。

だから、完璧でいろとは言わない。

 

ただ・・・自分の状態くらいは、自分が目を離すな

 

自分から目をそらして、
他人の評価だけを見つめて、
何を守って、何を見せようとしているんだろう。

 

私は、そう思う。

 シンプルフレーズ

鏡に映る自分から逃げない。
他人に見せて生きるなら、まず自分が自分を見ろ。

顔は、造形の問題じゃない。
“自己認識の入口”としての顔なんだと思う。

最後の一言(締めの名言)

自分を見ない人は、他人の目に住むことになる。

「鏡を見たら、また欠点を見つけてしまうかもしれない」 

「自分を認めたら、もう言い訳ができなくなるかもしれない」

そんなネガティブな未来を予見して、自分の姿から逃げているのは、他ならぬ自分自身。 

 

不自由なこの世界を、最高に「くだらなく」笑い飛ばして生きるための、唯一の地図になるのだから。