泣いている人を見た時、
困っている人を見た時、
胸の奥がザワつく瞬間ってある。

「声をかけた方がいいのかな」
「でも余計なことになるかな」
「迷惑って言われたらどうしよう」
「拒絶されたら、私の方が壊れる」

そんな葛藤を抱えたまま、結局なにもできずに通り過ぎて、
家に帰ってから、じわじわ自己嫌悪になる日もある。

 

優しさって、きれいなもののはずなのに。
なんでこんなに扱いづらいんだろう。

  優しさは、他人のためじゃなく「自分の欲望」から始まる

 

私は思う。
優しさって、結局、自己満なんだ。

誰かを助けたい。
笑わせたい。
この世界で“冷たい人間”になりたくない。
目の前の痛みを見ていられない。

 

それって全部、「自分がそうしたい」っていう欲望だ。

 

相手が何を求めているかなんて、分からない。
分からないまま動けば、「それじゃない」「そうじゃない」「迷惑」って拒絶されることもある。

そして、その拒絶が一番刺さる。
善意が悪に変換される瞬間が、いちばん壊れる。

だから私は最近、こう思うようになった。

優しさの使い方は、欲望のままでいい。
ただし、結果は保証されない。

 

  理性の仕事は「破綻しない型」じゃない

 

世の中ではよく言う。
「優しさは設計しよう」
「制度に繋ごう」
「ルールを決めよう」

確かに、それが正しい場面もある。
でも、私の中で理性がやってる仕事は、それじゃない。

理性の仕事は、もっと泥臭い。

 

自分が壊れないために、自分が自分にする言い訳を作ること。
「自分は満足した」「これでよかった」って、自分で笑うために、落としどころを作ること。

 

優しさを使った後、
あるいは使えなかった後、

「それでも、私はこうしたかった」
「今日はこれが限界だった」
「ここまでやれたなら十分だ」
「誰も救えなくても、私は私を見捨てなかった」

そうやって辻褄を合わせて、
自分が次の日も生きられるようにする。

 

理性って、正しさを作るんじゃない。
生き延びるための“後付けの意味”を作る。

 

  優しさの最適化はAIでいい

 

「どうやったら誤解されないか」
「どうしたら炎上しないか」
「どういう言葉が適切か」
「誰に繋げば安全か」

そういう“制度としての型”は、AIが得意だと思う。
合理的に、確率的に、リスクを下げる方法を提示できる。

 

でも人間は、そんなにきれいに運用できない。

だって、優しさは欲望だから。
理屈じゃなく、衝動だから。

衝動で動いて、
失敗して、
拒絶されて、
それでもまた優しくしたくなって。

 

その繰り返しが人間で、
その傷の回収をするのが理性なんだと思う。

 

  「誰のため?」に決着をつけないまま、それでも手放したくない

 

優しさは誰のためにあるのか。
自分のための優しさは、相手に伝わるのか。

たぶん、基本うまくいかない。
伝わらないことの方が多い。
むしろ悪になることだってある。

 

それでも私は、手放したくない。

 

拒絶される可能性も、
負担になる可能性も、
負債になる可能性も、
全部ひっくるめて、手放したくない。

だってそれを手放したら、
私は「駆け引き」と「自己防衛」だけで生きることになる。

自分のために生きたいのに、
誰かとの駆け引きで生きたくない。

私の優しさが、たまたま運よく誰かのためになったら素敵。
それで十分。

ヒーローになりたい人は目指せばいい。
助けたい人は助ければいい。

私はただ、
壊れながらでも、
優しさを持っていたいだけだ。

  結局、人生は足掻くしかない

 

落としどころなんて、最初から用意されていない。

欲望で動いて、
理性で言い訳して、
「これでよかった」って自分に言って、
また次の日を生きる。

 

苦みと苦しみと悲しみと、ダンスしながら。

それが、私の生き方なんだと思う。