夢は信じることから始めるんだよ!

 

夢は、叶えることから始まらない。
まずは、信じることから始まるんだ!! って、思ってる。

 

もっと正確に言うなら、
「信じたい」と思ってしまった自分を、ちゃんと自覚することから始まる。

 

夢も希望も願望も、たぶん最初は小さい。
誰にも言えないくらい小さい。
自分の中でも「気のせい」ってことにしたくなるくらい小さい。

でも、その小ささを踏みつぶすのは、たいてい自分だ。
「現実見ろ」って言って。
「今さら無理」って言って。
「そんなこと考えてる場合じゃない」って言って。

 

・・・でもね。
“考えてしまった”時点で、それはもう在る。

 

  夢はゴールじゃなくて、立ち位置だと思う

 

よく言われる。
夢は叶えるためにある。

 

目標を立てて、計画して、努力して、結果を出す。

 

間違ってない。
でも、それだけだと苦しくなる人もいる。

私はどちらかというと、結果より過程を重視するタイプだ。
「叶えるために生きる」より、
「生きる過程で、夢が形になっていく」ほうがしっくりくる。

 

目的と目標の違いがあるとするなら、一般論ではこうなる。
目的・・・夢の実現
目標・・・そのためのステップ

 

でも、私の感覚は違う。

 

私の目的は、夢の実現そのものじゃない。
今を大切にして、大切なものを見つけて、楽しいを求めていくこと。

 

そして目標は、もっと生活に近い。
分を知ること。自分を大切にすること。

つまり夢は、終点じゃない。
「どこへ行くか」よりも、「どこに立って生きるか」を決めるもの。
私はそう思っている。

  生きるって・・・取捨選択の連続だ。逃げ場がないくらい

 

生きるって、ほんとうに取捨選択の連続だ。


毎日が、選択でできてる。

行くか、行かないか。
言うか、黙るか。
耐えるか、離れるか。
買うか、我慢するか。
休むか、無理するか。
好きと言うか、黙って終わらせるか。

 

その一つ一つが、未来を変える。
 

なのに、現実はこうだ。

疲れていると、選べない。
焦っていると、選べない。
お金がないと、選べない。
時間がないと、選べない。
一人だと、選べない。

選べない状態って、心を削る。
「自分が生きてる感覚」が薄くなるから。

だから私は、何よりも先に守りたい。
選択するっていう権利を、手放さない生き方。

 

  自己責任の“ご都合主義”を、私は信用しない


私は、自己責任という言葉が好きじゃない。

もちろん「自分の選択を大事にする」って話なら分かる。
でも現実で使われる自己責任は、だいたいこうなる。

「それ、あなたが選んだんでしょ?」
「嫌なら辞めれば?」
「努力が足りないんじゃない?」
「自己管理できてないだけでは?」

・・・便利すぎる。
言う側が一番ラクになる言葉だ。

 

しかも厄介なのは、
選ばされた事実まで「自分の選択」に書き換えること

 

逃げ道がない状況。
断れない空気。
生活のための妥協。
家族や職場や社会の圧。
体力やメンタルの限界。

そういう“構造”を丸ごと消して、
「はい、あなたの責任ね」で終わらせる。

 

それは強さじゃない。
ただの美徳の押し付けだ。

私はそこを、ばっさり切り捨てたい。

 

  私が守りたいのは「責任」じゃない。「権利」だ

 

誤解される前に言うけど、
私は「責任なんて知らない」と開き直りたいわけじゃない。

私が大切にしたいのは、責任じゃなくて権利。

 

選択の責任を持つ生き方ではなく、
選択する権利を奪われない生き方

 

責任なんて、あとからいくらでも背負わされる。
仕事でも、人間関係でも、家庭でも。
「想定外でした」は許されない。
「事情があって」は切り捨てられる。
「結果を出せ」で終わる。

でも、選択する権利は違う。
奪われたら戻らない。
気づいた時には、もう“選べない人”になっている。

 

だから私は、まずここを守る。
選ぶ権利。
選び直す権利。
迷う権利。
立ち止まる権利。
逃げる権利。

そのための指針が、大切なものと優先順位だと思う。

  選べなくなる理由は、意志が弱いからじゃない

 

人が選べなくなる時って、根性がないからじゃない。
意志が弱いからでもない。

単純に、自分の中の「優先順位」が見えなくなってるだけ。

 

疲れ切ってると、
何が大切か分からなくなる。

不安が強いと、
何が欲しいか分からなくなる。

周りの声が大きいと、
自分の声が消える。

だから必要なのは、これだと思う。

「どうしたい?」
「なにがしたい?」
「どうなりたい?」
「何が、どれが、いつ、そしてなぜ?」

この問いを“持っている”こと。


そして、薄くてもいいから“答えを知っている”こと。

知らないから、流される。
分からないから、選ばされる。

  「言い訳」も「逃げ道」も、あっていい。自分だけで背負えることなんてたかが知れてる

 

ここも、私は譲りたくない。

自分だけで背負えることなんて、たかが知れてる。

結果は、必ず誰かを巻き込む。
家族も、職場も、友達も、社会も。
そして自分もまた、誰かの選択の“結果”を背負って生きている。

なら、こう言っていいはずだ。

言い訳くらいあっていい。
逃げ道くらいあっていい。
誰かのせいにしたっていい。

それは無責任じゃない。
耐荷重を理解している人の現実感だ。

「全部自分で背負え」なんて思想のほうが、よほど暴力的だと思う。

 

  結果を気にしすぎると、人は一歩も動けなくなる

 

誰かが不幸になったら?
誰かに迷惑をかけたら?
誰かの負担になったら?

 

そんなことを考え始めたら、もう動けない。
何も選べない。
何もしないことが“最善”になる。

 

でも、それって本当に生きてるって言える?

 

私は思う。
それって、お互い様だ。

自分だって、誰かの選択の結果で不利益を抱えて生きてきた。
この世界で「誰も傷つかない選択」なんて、ほとんど存在しない。

だから私は、結果よりも先に、
選ぶ権利を守りたい。

 

  仏教的な“耐えろ”が強すぎる世界は、生きにくい

 

因果。
業。
我慢。
調和。
徳。
慎ましさ。

美しい。


でも、強すぎると人は窒息する。

「迷惑をかけるな」
「欲しがるな」
「耐えろ」
「諦めろ」
「丸く収めろ」

その結果、何が起きるか。
欲望は汚れ扱いされ、
夢は贅沢扱いされ、
希望は未熟扱いされる。

 

・・・生きにくいに決まってる。

本当に私の苦手な考え方と価値観の世界だ・・・。

  夢は信じることから始めるんだよ・・・もっと、自分の為に生きよ?

 

夢は信じることから始める。
希望も願望も、自覚して信じることから始める。

 

そのうえで、私はこう選ぶ。

選択の責任を綺麗に背負う生き方じゃない。
自己責任の美談を抱えて沈む生き方じゃない。

選択する権利を奪われないための生き方。

 

そのために、
自分の大切を知る。
自分の優先順位を知る。
「どうしたい?」を持ち続ける。

 

結果は怖い。
後悔も悲しみも辛さも、なくならない。
でも私は、そこに怯えて止まるより、
自分の選んだことにフォーカスして生きて逝きたい。

だから最後に、これだけ。

もっと、自分の為に生きよ?

あなたの大切を、あなたが決めていい。
あなたの世界は、あなたの見方で作っていい。
奪われないで。
選ばされないで。