愛される人?

モテる人?

って言うのは・・・もしかしたら、適度にポンコツな人・・・?

親近感が持てて、隙があって、会話が楽しくて、話しを聞いてくれるどけ、聞いてないくらいの人。

 

リアクションが良くて、笑顔が素敵で、気が利いて、優しくて・・・

要は聞き上手な人なんだ。

 

それは、誰も彼もが話を聞いて欲しいって思っているからだろう。

自分の話を聞いて欲しいんだ。

心の中の思いを、感情を、考えを、自分の正しさを・・・・

聞いて欲しくて、知って欲しくて、共感されたくて、認められたい。

 

その欲を満たしてくれる人が愛されて、モテるのかもしれないな。

でも、実際はそんな状況や関係や環境はなかなか手に入らない。

聞いてくれる人なんて出会えない・・・

 

だから、聞いてくれる人に人は集まるんだろうね。

 

問うに落ちず、語るに落ちる・・・人は「正確に理解されたい」より「安心して話したい」

 

小さなころから大人になるまで、
誰でも一度は「悪いことをした」と思う瞬間があると思う。

 

でも、それを人に話せるかと言われたら・・・なかなか言えない。
むしろ言えない方が普通かもしれない。

 

先生に見つかって、呼ばれて。
親に問い詰められて。
上司に詰められて。
あるいは公共の場で、衆人環視の中。
警察の前みたいに、「罰」を連想させる存在の前。

 

そんな場面で、素直になれる人なんて・・・ほぼ居ない。

 

「素直になれ」って言われて素直になれるなら、最初から苦労してない。
あれは、正論じゃなくて圧力に近い。

 

  リスクとは何か・・・罰を与える側が“見える”こと

 

ここで大事なのは、「素直になれないのは性格の問題」じゃないってこと。

人が黙るのは、弱いからじゃない。


リスクを予測しているだけ

リスクって、結局これだと思う。

  • 叱られる

  • 評価が下がる

  • 立場が悪くなる

  • 排除される

  • “問題児”として管理される

そして、そのリスクを現実にできるのが・・・
罰を与える側の存在

上司、教師、親、警察、世間の目。
「この人たちが決める」と感じた瞬間、人は防御する。

だからこそ昔から言われる。

 

問うに落ちず、語るに落ちる。

 

問い詰めるほど、人は落ちない。
むしろ黙る。固まる。取り繕う。
でも、自分から語り始めたら・・・勝手に本音が出る。

 

  人は話すのが好き・・・ただ、話せる環境と話せない環境がある

思い出してみてほしい。

小さな時から、大人になってからでも、
友人と楽しく話しているとき、ふと昔の失敗を笑い話にしたり、
ちょっとした悪さを武勇伝みたいに語ったりすることがある。

 

聞かれてもいないのに自慢話が始まることもある。

 

それはつまり、人は本当は・・・話すのが好き。
話したい本音や、話したいコトを抱えて生きてる。

ただ、条件がある。

  • 問われないこと

  • 裁かれないこと

  • 取り上げられないこと

  • 正しさのチェックが入らないこと

ここが揃うと、人は勝手に語り出す。

 

だから私は思う。

人はね、
「正確に理解されたい」より「安心して話したい」生き物なんだと思う。

  「許可」よりも先にあるもの・・・同類がいる安心

でも、ここで一つ、ややこしい話が出てくる。

安心って、単純に「罰がない」だけで生まれるのか?


それだけじゃない気がする。

むしろ人は、「自分だけが罰を受けをる状態」一番怖がる。

だから、安心の正体はこういうことかもしれない。

  • 同じ地雷を踏んでいる人がいる

  • 同じように罰の対象になり得る人がいる

  • 同じ穴の狢がいる

この「暗黙の了解」があると、呼吸が深くなる。

 

例えば・・・オタクの世界もそうなんじゃないかな?

私の若い時・学生時代はアニメ・漫画が好きって言うのは肩身が狭かった。
でも、同種同士なら居場所は作れる。同じ同志なら楽しい時間を過ごすことが出来る。


同じように、

同じ傷や後悔を持っている人同士でも、分かり合える。

言葉を選ばなければ、傷の舐め合いでの居場所っていう安心感を持つことが出来る。

 

でも・・・ここには影がある。

  居場所の錯覚・・・同族のぬるま湯は“外”に弱い

同類がいる安心は、確かに救いになる。


ただ、それがそのまま「居場所」か?と言われると、怪しい。

なぜなら、そこは・・・

  • 外の目線には弱い

  • 理解されない世界に触れた瞬間に崩れやすい

  • 傷の舐め合いや足の引っ張り合いに変わることがある

つまり、リスクは消えていない。
隠れているだけ。分散されているだけ。

 

だから苦しくなる。

「ここに居れば安心なのに」
「でも、ここから出ると弱い」
「ここにいる自分も、どこか後ろ暗い」

 

それは、居場所というより・・・避難所。
守るための場所。
日の当たる場所ではない。

 

それでも、そこにしか居られないことも分かる。そこでしか生きられないことも分かる。

その同族が居ることで得られる安心感は何よりも強い。

 

  社会が押し付ける“居場所条件”・・・愛されなきゃ、役に立たなきゃ

そしてもう一つ。
世の中には、もっと厄介な条件がある。

「愛されなきゃ」
「役に立たなきゃ」
「必要とされなきゃ」

これは、社会が押し付けてくる存在価値の条件。

個人が安心するための条件ではない。

 

社会で居場所を作ろうとすると、自分を偽って、削って、犠牲にして、
“使える形”に整えないと座れない席が多い。

 

だから社会的に居場所があっても、居心地が良いとは限らない。

 

それが世界の構造。
だから、そこで得た居場所は・・・居心地と直結しない。

  だから、この結論が刺さる

「愛される人を目指すより、愛される人の近くにいる方が楽。」

 

愛される人って、
特別なスキルで人を操っているというより・・・

  • 問わない

  • 裁かない

  • 深掘りしすぎない

  • でも、雑に放置もしない

  • 「聞いてるようで聞いてない」余白がある

そういう、呼吸できる距離感を持っている人が多い。

だから人が集まる。
だから近くにいると楽。

目指さなくていい。
隣にいればいい。
その方が、ずっと現実的で、ずっと優しい。

 

  探すべきものは「人」だけじゃない・・・ペルソナの限界を知る

 

最後に、ここが一番大事だと思う。

居場所は、
「どこかに用意されているもの」じゃない。

人は誰でも、環境に合わせたペルソナを持っている。
でも、演じられる数と種類には限界がある。

だから探すべきは、

  • 自分が作れるペルソナの種類

  • 同時に維持できる数

  • どの場面で壊れるか

  • どの場面なら回復できるか

自分の限界が見えると、選択肢が特定できる。
特定できたら、取捨選択できる。

居場所探しって、
「頑張って席を取りに行くこと」じゃなくて、
自分が壊れない範囲を見極めることなのかもしれない。

 

  居心地の良さは「安全」と「消耗しない」を両立する場所

 

素直になれる場所は、“正直でいられる場所”というより、
“守らなくていい場所”。

 

安心できる場所は、“優しい場所”というより、
“罰の気配が薄い場所”。

 

居心地が良い場所は、“同族のぬるま湯”だけじゃなく、
“外にも接続できる余白”がある場所。

 

素直になれないのは、あなたの欠陥じゃなくて、危険を嗅ぎ分ける能力だ。
だから必要なのは根性じゃない。
罰の気配が薄い場所と、消耗が偏らない関係を、選び直すこと。


その選び直しができる範囲を知るために、人は自分のペルソナの限界を測っていく。

「安心できる場所」は、どこかに用意されている席じゃない。
罰を与える側が見える場所では、人は黙る。
同類がいる場所は呼吸がしやすいが、外に弱いこともある。


だから結局、居場所は一発で見つからない。
消耗しない距離を、何度も試して、何度も捨てて、残ったものが居場所になる。