誠実・誠意・恋愛・人間関係
人は、自分が欲しい形を相手にも渡そうとする
人は不思議だ。
恋愛でも、人間関係でも、
自分が欲しいものを、相手にも求めてしまう。
安心が欲しい人は、
安心を差し出そうとする。
誠意を向けられたかった人は、
誠意ある振る舞いを選ぼうとする。
これはきっと、意識的な戦略というより、
生き方の癖みたいなものだ。
「人は、自分が扱われたいように他者を扱う」
こんな言葉があるけれど、
たぶん、これは半分正しくて、半分は条件付きだ。
対等な関係でしか、誠意は成立しない
自分が求めている形を相手にも渡そうとする。
それが成立するのは、
相手を“人として見ている時”だけだと思う。
関係が対等で、繋がりがはっきりしていて、
相手にも選ぶ自由があると感じられる時。
その時、人は自然と、
-
相手の立場を考え
-
無理をさせない距離を保ち
-
誠意や安心を差し出そうとする
草食系の恋愛スタイルも、
誠意を大切にする態度も、
この前提があってこそだ。
人は、時に人を「人として扱わない」
でも現実は、そんなに綺麗じゃない。
人は、時として他人を
人ではなく、役割として扱う。
-
仕事では「歯車」
-
商売では「客」
-
利益の前では「獲物」
-
対立すれば「敵」
-
理解できなければ「恐怖の対象」
そこに誠意や安心が入り込む余地はない。
商品を売るためなら、利益を得るためなら、
相手の感情や尊厳は後回しになる。
それは珍しいことじゃない。
むしろ、よくあることだ。
相手に渡すものは「欲しいもの」で変わる
ここで、少し冷たい話をしよう。
人は、相手から何を得たいかによって、渡すものを変える。
-
安心が欲しいなら、安心を渡そうとする
-
信頼が欲しいなら、誠意を装う
-
好意が欲しいなら、優しさを見せる
でも、
-
利益だけが欲しい時
-
支配したい時
-
消費したいだけの時
そこでは、誠意も安心も必要なくなる。
相手を食い物にしたいだけなら、誠意は邪魔になることさえある。
人は結局、利己的なのかもしれない
ここまで考えると、
「人は利己的だ」という考えに行き着く。
自分の利益のために動く。
自分が損をしないように選ぶ。
自分が生き延びるために判断する。
それが、性悪説が生まれた理由なのかもしれない。
「人は善でも悪でもなく、まず自分のために動く存在だ」
利己的だからこそ、
人は間違うし、失敗するし、誰かを傷つけてしまう。
そして、悲しい想いをすることもあるだろうし、辛い経験をすることもある。
何より、相手に与えたもの・渡したものに対して、思っていたものと違う形で返ってきたら・・・
きっと誰でも面白く無いって思ってしまう。
コスパなんていい例だろう。
金額に対して、手に入れたものが期待外れだったら『がっかり』は否めないからね。
だから、自己犠牲が「崇高」になる
その一方で、自己犠牲が美徳として語られる理由も、ここにある気がする。
利己的に生きるのが前提だからこそ、
-
自分の利益を後回しにする
-
他人のために損を引き受ける
その行為が、例外として崇高に見える。
でも本当は、
自己犠牲が正しいわけでも、
利己心が悪いわけでもない。
ただ、人はその間で揺れているだけだ。
対価を求めず、何のメリットもない時に出来る行動はとても素敵なコトだと私も思う。
少なくとも、自己の最低限の安心や安定が担保された状況で初めて出来る行為だと私は思っている。
多少、余裕やゆとりがあるから出来る、他人の為の善意。
余裕もゆとりもなく、今を生きるだけで精いっぱいの私からしたら、
自分が不利益ばかりでは・・・私は面白く無い。
それでも、安心を差し出す人がいる
それでも、安心を差し出す人がいる。
誠意を形にしようとする人がいる。
それはきっと、
-
そう扱われたかったから
-
そう扱われる世界を信じたいから
自分が求めている形を、まだ諦めていないからだ。
草食系の恋愛も、誠意を大切にする人間関係も、
世界への小さな賭けなのかもしれない。
不確定な可能性に挑戦することの是非は私には分からないけれど・・・
それでも、自分が望むモノ、自分が願う形の為の行動は、自己犠牲なんかじゃなく・・・
自分の為の行為で、自分の為に、自分が願う為で叶えるための行動なんだ。
他人の為の行動や行為じゃなく
自分の為の行為や行動が、結果として誰かの為になっている。
これが私が思う理想のカタチなんだ。
シンプルフレーズ
人は、自分が欲しい形を相手にも求める。
だからこそ、同じものを渡そうとする。
それが成立するかどうかは、
相手を「人として見るかどうか」にかかっている。
誠意も、安心も、万能じゃない。
でも、
それを差し出そうとする在り方そのものが、
その人の人生観を表している。
それだけは、たしかだと思う。



