軽薄で浅学で自分のコトすらおぼつかない私。
いつまでたっても、自分一人で立って生きていくことが出来ない。
常に誰かに頼って、寄りかかって、弱さを噛みしめながら
生きている。
そう、まだ生きている。
これでも、生きている。
まだまだ、生きているっていうことなんだよね。
そんな私の夜の日課的な自己満の思考の塊をここに日々綴る・・・
「壊れる自由」と倫理・・・翻訳されないまま生きるということ
人を見て、「壊れた」っていうことが少なからずあるんじゃないだろうか?
それは、どんな時に使うかな?どんな場面で見聞きすることになるのかな?
誰も気にするほどのことでは無いだろうし、単なる比喩で意味もなく使われるだけのコトも多いだろう。
そんな、壊れるって言うことを少し掘り下げてみようと思った今日この頃・・・
人が「壊れた」と言われる瞬間
人が「壊れた」と言われる時、それは本当に“壊れて”いるんだろうか?
お酒に酔ってテンションが上がった人を「壊れた」と言う。
社会の空気を読まない行動をする人にも「壊れた」と言う。
法や常識から逸れた人、集団に馴染まない人、声の大きな活動家を「壊れている」と言うこともある。
でも、私が思う「壊れる」とは、
自分を見失った状態じゃなくて、むしろ“他人に合わせる自分”をやめた瞬間なんじゃないかと思う。
ペルソナを脱いで、
損得も評価も関係も全部いったん横に置いて、
ただ「こうしたい」「こう在りたい」という衝動で動いた時。
それを、社会は「壊れた」と呼ぶ。
壊れているのは、その人じゃなくて、
その人を“説明できない側”の感性の方なのかもしれない。
倫理とは、誰と生きるための思考なのか
一方で、倫理とは何かと考えると、
それはきっと「社会と共存するための思考」だ。
正しさ、規範、説明、理解、共感、合意。
それらを通して、集団は安定を保つ。
でも、「壊れる自由」と「倫理」は、構造的にぶつかる。
壊れるとは、
社会に向けた説明を拒否すること。
倫理は、
説明し、理解され、納得されることを前提とする装置。
だから、壊れる人はたいてい孤独になる。
マイノリティになり、反対者になり、ときには敵にされる。
理解されないのは、理解を求めないからじゃない。
理解される“翻訳の言葉”を、最初から持っていないだけかもしれない。
知らない言語でどれだけ話しても、伝わらないのと同じだ。
世界は生を与え、社会は生に値札を貼る
この世界は、生きたいという衝動そのものは否定しない。
呼吸も心臓も、勝手に動かし続けてくれる。
でも社会は、生きるための対価を必ず求める。
お金、労働、役割、生産性、効率、価値。
生きるためには、誰かの場所を借りるか、買うか、奪うしかない。
世界は生を与える。
社会は生に支払いを求める。
この矛盾の中で、
「生きたいだけ」という思いは、いつも宙ぶらりんになる。
そして気づけば、
翻訳されない思い・伝わらない思いは、
結果と利益だけで切り捨てられていく。
換金されなかった自由は、本当に敗北なのか
「換金されなかった壊れる自由は、本当に救われない自由なのか?」
「翻訳されないまま生きることは、敗北なのか?」
私は、そうは思わない。
翻訳されなかったのは、価値がなかったからじゃない。
最初から、“売らなかっただけ”なのかもしれない。
誰にも説明されないまま、在り続けること。
評価も意義も与えられないまま、ただ生き続けること。
それは確かに、社会の中では敗北に見える。
でもそこには、
在ったという事実だけが残る。
人は、その「在った」を失ってから、
「後悔」という新しい価値に作り替えて生きていく。
後悔は、鎧にも鎖にもなる
後悔は、人を縛ることもあるし、守ることもある。
動きたい時には「鎖」になり、
動けない時には「鎧」になる。
だけど、後悔があるからこそ、
人は「違う選び方」を探そうとする。
誰かを傷つけたから、次は傷つけたくないと思う。
失敗したから、別の言葉と別の行動を探そうとする。
後悔は、
未来を選び直すための“通行料”なのかもしれない。
翻訳されなかった自由は、敗北ではない
壊れる自由は、完全には社会の重力から逃げられない。
それでも、翻訳されないまま進み続ける人がいる。
お金にならなくても、
評価されなくても、
理解されなくても、
出来ることにだけ、命を懸けて進む人がいる。
社会に勝たなくてもいい。
説明できなくてもいい。
救われなくてもいい。
翻訳されなかった自由は、敗北ではない。
それが、今日の私の答えです。





