自由になりたい。自由に生きたい。私は自由を探したい。

◆ 自由を問う私たち——それは希望か、それとも自己否定か
1. 自由をめぐる日常の風景
私たちは日常の中で、何度も「自由」という言葉を思い浮かべます。
「もっと自由に生きたい」
「自由な時間が欲しい」
「自由に選びたい」
けれども、不思議なことに、実際に「自由」を手にしていると感じられる瞬間は少ないのではないでしょうか。
例えば休日。
「今日は何をしてもいい」と思うと、逆に何をすればいいのか分からなくなる。
結果的にスマホを見て終わり、夜になって「せっかくの自由を無駄にした」と後悔する。
この経験に心当たりがある方は多いはずです。
ここに、私たちが抱える「自由」と「不自由」の矛盾が表れています。
2. 私たちは世界を“見たいように”しか見られない
そもそも、人間は「白紙の世界」をそのまま見ることができません。
私たちはすでに、自分の価値観や感情を通して世界を眺めています。
「黒い絵の具」が好きな人であっても、
周囲から「カラフルに描きなさい」と言われれば、次第に色を混ぜて描くようになる。
そのうち、どれが本当に自分の好きな色だったのか分からなくなるのです。
こうして世界は、教育や社会的規範によって「色づけされたレンズ」の中でしか見えなくなります。
つまり、私たちは現象をそのまま知ることはできず、
「すでに作られた感性」で解釈した世界しか見ていないのです。
3. ペルソナと自己監視の牢獄
心理学者ユングは「ペルソナ(仮面)」という言葉を使いました。
社会の中で役割を果たすために、人は仮面を被る。
それは教師であり、親であり、部下であり、友人である。
問題は、その仮面を長く被り続けると、
「仮面こそが自分だ」と思い込んでしまうことです。
さらに現代では、SNSや他人の評価が監視の目となり、
「自分を良く見せるペルソナ」を自ら強化しています。
つまり、自己監視の牢獄の中で、自分を管理しているのです。
この時、私たちが問う「自由」とは、
仮面を外したい願望なのか?
それとも、仮面を外せないことへの自己否定なのか?
4. 自由は本当に存在するのか
哲学者カントは「物自体」という概念を示しました。
それは「存在しているけれど、直接確認できないもの」。
私たちにとって「自由」とは、この「物自体」に近い存在かもしれません。
「確かにある」と信じているけれど、実際に掴むことはできない。
規範の外にあるはずの自由。
けれど「規範の外」という発想自体が、規範に依存して生まれた概念です。
つまり、自由は本来の姿を知ることができず、常に“想像”するしかない。
ここに、私たちが「自由を問う理由」が隠れているように思います。
5. 自由を問うのは希望か、それとも自己否定か
「もっと自由に」と願うとき、
そこには確かに「希望」があります。
いまよりも新しい自分に出会いたい、という前向きな衝動。
しかし同時に、その問いは「いまの自分は不自由だ」という宣告でもある。
だから「自由を求めること」には、常に「自己否定」が影のように寄り添っています。
この二つは切り離せません。
自由を問うとき、私たちは希望と自己否定を同時に抱えているのです。
6.自由は「追い続ける夢」なのか
ここで一歩、視点を変えてみましょう。
自由が「あるのかないのか」を証明する必要は、本当はないのかもしれません。
なぜなら、私たちは他者の生き方を見て「自由だ」と感じるからです。
旅行に出かける友人を見て「自由だな」と思う。
会社を辞めて起業した人に「自由だ」と憧れる。
それは、自分が持っていない生き方に魅力を込めて「自由」と名づけているのです。
つまり自由とは、客観的に存在するものではなく、
自己との比較の中で浮かび上がる概念なのです。
そう考えると、自由は「生きるための支え」だと分かります。
「まだ持っていない生き方」に夢を託すから、人は今日も生きる力を得る。
問い続けるのではなく、追い続けるものとしての自由。
目的地は、まだ持っていない場所。
自分の色で生きられる場所。
そしてその「自分の色」は、夢幻のように掴めないからこそ美しい。
◆ まとめ
自由を問うのは、希望であり、自己否定でもある。
そしてもう一つ、追いかける夢でもある。
自由とは、答えにたどり着くためのものではないのかもしれません。
それは「生きている限り追い続ける幻」のような存在。
だからこそ、今日も私たちは問い続け、そして追い続ける。
その矛盾の中でこそ、人間らしい営みがあるのだと思います。
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人は「見たいようにしか世界を見られない」。
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ペルソナという仮面を被り、自己監視の牢獄で生きている。
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自由とは物自体のように「想像するしかない存在」である。
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自由を問うのは、希望と自己否定が常に同居しているからだ。
そして最後に、問いだけを残します。
「私にとっての自由とは、本当に“存在する”のだろうか?」
その答えは、誰も用意してくれません。
けれど、自由を願う気持ちが必要なんだ。
不完全な私たちが「生きる」という営みを続ける理由になるのかもしれません。

