🐾『吾輩は猫である』を、あえてラノベ風に読む理由。

「吾輩は猫である。名前はまだない。」

あまりにも有名なこの一文。
学生の頃に習った人も多いはず。
でも、ちゃんと最後まで読んだことがある人って……どれくらいいるだろう?

かくいう私も、その一人だった。

読み始めても、言葉が古くて読みにくい。
登場人物がやたら喋ってばかり。
猫のくせに妙に理屈っぽい。
……で、そっと本を閉じる。

けれど、大人になって、ふと思った。

この猫の視点って、もしかして——
今の社会にこそ刺さるんじゃないか?

名前のない存在。
飼われているようで、どこにも属していない猫。
その猫が、人間たちの滑稽な日常を黙って見つめながら、
時々、心の中で毒づくようにこう言う。

「おまえら、そんなことで偉そうにしてて、恥ずかしくないのか?」

……それって、なんだか私たち自身のことにも聞こえてこない?

社会の中で、自分の居場所に違和感を持ち、
ちゃんとしてる“フリ”をしながら、
でも心の中では、ずっと問い続けてる。

「私は、これでいいの?」って。

そんな今だからこそ。
私はこの物語を、あえて“ラノベ風”に再構成してみようと思った。

軽妙な語りで、テンポよく。
猫の皮肉とユーモアで、
人間の矛盾と滑稽さを、笑い飛ばしながら描いていく。

文学としてじゃなく、
“生きにくいこの世界を、ちょっと俯瞰して見る”物語として。

というわけで、第2話

 

第2話:苦沙弥先生は意識高い系中学教師

朝の台所には、戦争の匂いが漂っていた。
それは、焼きたての干物の香りとともにやってきた。

吾輩、今日も寝起きのストレッチをしつつ、朝食の様子を窺っていたのだが……
ターゲットは、食卓の端っこで絶妙な焦げ加減を見せるアジの干物一匹。
あれはもう、猫にとっての芸術品。つまり、**“食べられる名画”**である。

しかし——

「こら、おまえ。こっちに来るな。猫が魚を覚えたらおしまいだぞ」
ヒゲの男、つまり吾輩の飼い主(仮)である苦沙弥先生が、
まるで“万有引力の法則を説くニュートン”のような顔で、干物をガードしてきた。

うるさい。
覚えてしまったのではなく、本能である。

この男、普段はソファでごろごろ本を読み、たまに「学問の本質は問いにある」などと誰に向けるでもないセリフをつぶやく、典型的な意識高い系である。

教師だそうだ。
何を教えているのかと思えば、「倫理と国語」らしい。

倫理ってあれだろ?
「人間として正しくあれ」と言いつつ、干物を猫に分けないヤツが教えるやつ。

 

ちなみに昨日は、生徒にこう言ったらしい。
「君たちは未来の知性だ。己を律し、他人に誠実であれ」

…で、その足で書店に寄り、エッセイの新刊を立ち読みだけして戻ってきた。


買わんのかい。

 

しかも帰宅するやいなや「ちょっとくらい社会の矛盾に憤ってみせるのが、大人のたしなみだな」などとつぶやいていた。
その横で、奥様が「また晩ごはんに文句つける気じゃないでしょうね」と火花を散らしていたのは、実に対照的であった。

そう、この家の“リアル”を支えているのは、先生の“理想”ではなく、奥様の“現実力”である。

先生はというと、口だけ立派で、日曜になると「休日は思考の沈殿が必要なのだ」などとカッコつけて昼まで寝ている。

しかも寝ぐせで登校し、校門の前で髪を直す。
先生、それ“思考の沈殿”じゃなくて、ただの二度寝です。

とはいえ、この男には憎めないところもある。
干物はくれないが、たまに吾輩の額を指でトン、とつついて言うのだ。

「おまえはいいな。自由で、責任がなくて……猫になりたいよ」

——いや、まずは名前をくれ。

 

教師であることに誇りを持ち、知識人らしい風を吹かせ、
理想の教育者を演じながらも、干物一枚で猫と静かに争う。
そんな男が今日も「生徒に信頼されるには、信念を持たねばならん」などと語っている。

だがその信念、なぜか奥様の前ではすぐ萎れる。

 

そう、これが——

吾輩の見る「意識高い系中学教師」——苦沙弥先生の真の姿である。

 

次回予告:「奥様の味噌汁がしょっぱい」
——家庭の味に潜む、微妙な温度差。愛情と塩加減は比例しない!?