哲学を学び、言葉を紡ぐと、どうしても先人たちの言葉に出会う。
私も、正直歩き始めたばかりで、右も左も分からない。
今までは、自分の経験からの言葉を押し付けるようにして書いていた。
そこから、読みやすくって言うのを考えるようになり、
言葉を選ぶようになった。結果、正直とても面白く無い。
想いをそのままぶつけられないブログになっていた。
私は今まで、スピの世界に居たから自己啓発やスピや宗教的な話しはとても馴染みがあった。
でも、私には合わない。そこからもがいて出会った哲学の世界。
次の一歩に進むために、私自身が進むために・・・・
今回は「吾輩は猫である」を、見てみたい。
🐾はじめに──なぜ、今さら夏目漱石?
古典文学って、正直……読みづらい。
言い回しが古い、文体が堅い、登場人物の会話が長すぎる。
でも、私はあえてこの作品を取り上げました。
なぜなら、
『吾輩は猫である』は“社会を皮肉る哲学の書”だからです。
しかも、猫という視点を借りて、人間の滑稽さを見事に炙り出している。
にもかかわらず、現代ではそのメッセージが届きにくい。
「難しい文学」として扱われすぎている。
だから私は、この名作を“ラノベ風”に再構成することを選びました。
🐟ラノベ調にすることで、猫の毒舌が冴え渡る
「ラノベ風」って聞くと、軽い、浅い、若者向けって思うかもしれません。
でも本質は違います。
ラノベは——
テンポがよく、会話が生きていて、キャラの内面を豊かに描くフォーマット。
つまり、「吾輩」の視点や皮肉がダイレクトに、しかも面白く届くんです。
たとえば:
-
名前が与えられない猫が、自分の存在を問い続ける
→ 「アイデンティティの危機」としての哲学的テーマ -
教師である主人が、知性を振りかざすだけの“意識高い系”
→ “知識人”がいかに滑稽かを暴く社会風刺 -
家庭の中で発生する見栄と現実のズレ
→ “家庭という社会の縮図”を笑いに変える観察
🧠漱石が描いたのは「人間という矛盾体」だった
夏目漱石は、ただ猫を語らせただけではありません。
猫に「人間の愚かさ」や「文明の浅はかさ」を見せつけ、
言葉にできない違和感を、読者にじわじわ染み込ませてきました。
でもそれが、今の読者には届きにくい。
だからこそ、
猫の“ツッコミ”をもっと鋭く、もっと現代的に、もっと笑える形に。
そして、
笑ったあとにふと我に返るような、
「いや……これ、自分にも言えてないか?」と感じる物語にしたい。
「吾輩は猫である。名前はまだない。」
私は、「吾輩は猫である」をただの文学ではなく、
“読む哲学”として再構成したい。
猫という傍観者の目を通して、
この社会の矛盾、人間の見栄、言葉の不自由さ、存在の不安に触れる。
それを堅苦しい文章ではなく、
笑いながら、でも深く刺さる物語として、届けていきます。
というわけで、第1話はこちら🐾⇩⇩⇩⇩⇩⇩
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ラノベ風猫である
第1話:吾輩、名前がない件について
どうも、吾輩である。
え?名乗る前に名前を言えって?無理である。だって、吾輩には——
名前がないのだ。
人間社会では、名前というものは大変に重要らしい。
「山田くん」「佐藤くん」「そこのあなた」など、呼ばれることで存在が確定する。
が、吾輩はこの家に来て半年、まだ一度も「おまえ、○○って名前にしようか」すら言われていない。
……いや、さすがにゼロは盛った。
何度か「タマ」とか「ミケ」とか「クロ」とか、適当な名前候補が上がったが、ことごとくスルーされ、今に至る。
どうやらこの家の人間どもは、吾輩のことを「猫」としか認識していないらしい。
いや、"猫"って。分類学か。
ちなみに、ここはある学者の家である。
学者といっても、世間に名を馳せた大先生ではなく、近所の子どもに「アタマよさそう〜」と指をさされて悦に入る、中堅以下のニセインテリだ。
吾輩はこの家の床下で産声を上げ、生後わずか数日で人間界デビューを果たした。
本来なら「子猫かわいい!家族にしよう!」という展開になるはずだったが、現実は甘くない。
最初に吾輩を見つけたのは、女中のクメさん(※50歳オーバー独身・口癖は「面倒くさい」)。
そのクメさんが、まさかの第一声——
「うわ、猫じゃん。捨ててこよか?」
……おい。いきなりアウト寄りのジャッジ。
吾輩、猫生始まって最初のイベントが「処分フラグ」である。
だが運命は、たまにツメを噛み間違える。
ちょうどそのとき、居間にいた主人——学者(ヒゲ、眼鏡、髪ボサ)の一言が、吾輩の命を救った。
「いや、まあ、その……飼ってみるか」
このときのヒゲのテンションは、完全に「勢いで買った筋トレ器具と同レベル」であった。
つまり、長続きしないやつである。
が、結果として吾輩はこの家の一員(仮)になった。
ただし、名前はないまま。
飼い猫ってのは、基本、名前というアイデンティティを与えられ、それで初めて“飼われる者”としての自覚を持つ——らしいが、吾輩にはそれがない。
それでも、吾輩は考える猫である。
この学者の観察を日々続け、思索を深め、たまに机の上で哲学書を踏み荒らすことで、無言の抗議と知性の交錯を演出している。
正直に言おう。
吾輩はこの人間たちの暮らしぶりが、滑稽で、愚かしくて、なんだか目が離せないのだ。
学者は学者で、「自己とは何か」「倫理的相対主義とは」などと語っているが、
まずその前に——
吾輩に名前をつけたまえ。話はそこからだ。
次回予告:「名前よりも飯が欲しい件について」
——朝食の干物をめぐる、吾輩vsヒゲの静かなる攻防戦が始まる!



