安心を求めるから縛られたい。

違うかな?

縛られているから、安心するんだ。

 

繋がりが、共感が、重荷で負担で最高に苦しいけど

それが、そのまま安心になってしまう。

 

この矛盾のなかにこそ、「らしさ」があるのかもしれないね。

安心に縛られるという、人らしさ

「どうして私は、こんなにも“いい人”でいようとするんだろう?」

誰かの期待に応えようとして、
空気を読んで、察して、笑って、頷いて。
気づいたら、自分の本音がどこかに置き去りになっていた。

 

「縛られてる」「自由がない」
そう思って苦しくなるたび、
本当は誰に、何に縛られているんだろう?

ふと、そんな疑問が浮かんだ。

 

そして気づいた。
私が縛られているのは「他人」じゃなかった。
「安心」に縛られていたんだ。

安心がなくなるのが、怖かった。
だから私は、誰かに合わせていたんだ。

これって、弱さじゃなくて、
“生きようとしてる証拠”なんじゃないかって

  思いやりに縛られて、苦しくなるとき

 

「他人の気持ちを考えすぎてしまう」
「断れない」「嫌われたくない」

 

そんな思いに縛られて、動けなくなってしまうときがある。

誰かの顔色をうかがって、
自分の本音を押し殺して、
「いい人」でいようと頑張ってしまう。

 

そんな自分を、
「弱い」とか「自分がない」とか、
責めたくなることもあるよね。

 

  でも本当は、「安心」に縛られてるだけかもしれない

 

でも、ちょっとだけ見方を変えてみた。

私たちは、本当に「他人に縛られている」のだろうか?


もしかしたら、安心に縛られているだけなんじゃないかって。

 

たとえば——
“通い慣れた道”って、特に理由がなくても選んでしまうよね。
裏道の方が早くても、ちょっと怖い。
見知らぬ道に足を踏み入れるのは、不安がつきまとう。

人間関係だって、きっと同じ。
「波風立てないようにしよう」って思うのは、
自分が安心でいたいからなんだ。

 

誰かに合わせるのは、
その人のためというより、
自分の“安心”を守るため。

  「安心」に寄りかかることは、生きるための選択

 

「縛られること=悪いこと」
って、思い込んでしまってない?

だけど、安心に寄りかかることって、
とても素敵な“生き方の選択”だと思う。

それは、私たちが“人間”である証でもあるし、
「生きたい」という本能でもある。

 

動物だって、
安全な場所に戻ろうとする。
暗闇よりも光を求める。
安心できる匂いに引き寄せられる。

 

安心を求めるって、生き物の基本動作なんだよ。

  縛られることは、生き延びるための優しさ

 

他者に合わせてしまうことも、
我慢してしまうことも、
すべてが“悪い”わけじゃない。

 

「縛られている」と自分を責める前に、
「私は安心を求めているだけなんだ」って
自分に優しく言ってあげよう。

 

そうすれば、
「私は私のままで、ちゃんと生きてる」って
少しだけ、自信を持てる気がする。

 今日のシンプルフレーズ

他人に縛られてるんじゃない。
安心に縛られてるだけ。
それは、生きようとしてる証。