否定は終わりじゃない。
問いを手放さない者だけが、次の自由を描ける。
自由になりたいのに、動けない私たちへ―考えるだけじゃ、足りないから。―
守ってるだけのはずだった
「変わらなきゃいけない」って、わかってる。
でも、行動するって、そんなに簡単なことじゃない。
だって私たちはもう、
たくさんのものを“守る側”に回ってしまったから。
家族がいる。
仕事がある。
明日も今日と同じように、誰かのためにちゃんと「続けなきゃいけない」日々がある。
継続すること、安定を守ることに、
どこかで自分の価値を重ねてきた。
だから、壊すこと、変えること、止まることが、
「悪いこと」のように思えてしまう。
ほんとは守ってるんじゃない。
ただ、壊すのが怖いだけ。
でも、それを言葉にできなくて、
今日も「もっと頑張らなきゃ」と思いながら、
動けない自分を責めてしまう。
変わらない社会の、黙って従うルール
私たちの多くは、
すでに決められたルールの中で、
「自由です」って顔をしながら生きている。
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出る杭は打たれる
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主張すれば「面倒な人」になる
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自分の意見は「空気を読んでから」出すこと
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自分軸を持てば「意識高い系」か「スピリチュアル」扱い
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変わりたいと言えば、「現実を知らない」と笑われる
…じゃあ、“現実”って何?
誰が決めたの?
誰のための“普通”なの?
誰も答えてくれないのに、
変えようとする言葉だけは、やけに早く叩かれる。
正論の顔をした「自己責任」が、人を黙らせていく。
否定と諦めに慣れすぎた世界
「そんなの無理だよ」
「変わったところで意味ないよ」
「文句があるなら辞めれば?」
よく聞く言葉だけど、
その人も本当は気づいてるはず。
今のままじゃ、どこかおかしいって。
社会を変えようとする言葉に反発するのは、
**変えられないと信じ込まされてしまった人の“誠実な無力感”**かもしれない。
変化に飛び込む勇気が持てないから、
変わろうとする誰かを否定して、
「自分だけじゃない」と安心したいのかもしれない。
でもそれでも――
私たちは、その否定の先に問いを残せる。
問い続けることが、自由の芽になる
マルクスは言った。
「人は社会的な存在であり、社会が変わらなければ人も自由にはなれない」
私たちは選んでいるようで、
「選ばされている」だけかもしれない。
働き方も、生き方も、
“自由に見える”その裏に、「我慢」と「搾取」が組み込まれているなら、
それはもう、自由じゃない。
ヘーゲルは言った。
「矛盾と対立は、次のステージへの通過点である」
たとえ今すぐ社会を変えられなくても、
問い続けることをあきらめなければ、次の“ジンテーゼ(再構成)”はきっと生まれる。
「それって、本当に私の責任?」
「この仕組み、おかしくない?」
変わりたいんじゃない。
ちゃんと生きられる社会で、生きたいだけ。
✦ シンプルフレーズ
考えるだけじゃ、足りない。
否定のあとに、問いを残せ。
これから、マルクス的“解放”へつながるジンテーゼを探す。



