人前で「違う」と言ったら、空気が凍った。
上司に「それ、おかしくないですか?」って言ったら、干された。
神社に通ったら「なんか怪しくない?」とヒソヒソされた。

誰かを信じたら“お人好し”
声を上げたら“過激派”
自由を語れば“面倒な人”

……どう生きれば、ちょうどいいの?

 

行動しないことが“正しい”と教えられた私たちへ

  【見えない圧力に囲まれて】

― 出る杭は打たれ、目立つ者は消される世界で

誰かが正論を言った。
でも、周囲は沈黙した。


そのあと「あの人、ちょっと面倒だよね」とこぼされた。

 

思い出す。
会議で勇気を出して提案したら、空気が止まった。
上司は苦笑い、同僚は視線をそらした。

そうやって私たちは、“正しさ”よりも“空気”を読む技術を磨いてきた。

 

批判されたくないから、何も言わない。
攻撃されたくないから、何もしない。
「否定される前に、否定されないように立ち振る舞う」
これが社会の生存戦略だと、いつの間にか刷り込まれている。

 

だから、自由は選べない。
だって、自由は“自分で選ぶ責任”を伴うから。
間違えたら、自分のせいになるから。

それが怖い。
それが痛い。

 

  【行動しない方が、都合がいい】

― 黙ることが秩序を守り、守られるための条件になる社会

「行動しない」「意見を言わない」「違和感を飲み込む」

そのすべてが、“大人の対応”とされる。

本当は不満がある。違和感がある。
でも、それを口にするとトラブルになる。
目立って、浮いて、面倒くさい人のレッテルを貼られる。

 

だから私たちは覚えてしまった。

行動しないことが、正解なのだと。
意思を見せないことが、評価されるのだと。

 

沈黙は「無関心」ではなく、「防御」だった。
でもそれを周囲は「受け身」「やる気がない」と誤解する。


どれだけ理不尽だろう。

でも、そうすることで守れるものもある。


家庭。職場。立場。人間関係。

だから黙ってしまった。
そうするしか、なかった。

  【諦めたのは、負けたからじゃない】

― 行動を否定され続けた痛みの蓄積が、今の私

「やってもムダ」って、誰かに言われた。
「浮くだけだよ」って、忠告された。
「そんな理想論、現実じゃ通じない」って、笑われた。

あのとき、たしかに私の中にあった「こうしたい」が、
ゆっくりと死んでいく音がした。

 

行動したかった。
変えたかった。


でも、否定されるたびに、「次はやめておこう」と思った。

それが何度も積み重なると、もう自分の中から“動く意志”が消えていく。

 

誰も見ていなくても、自分は覚えている。


あの時、あの場で、何も言えなかったこと。
言って、傷ついたこと。
そして、諦めたこと。

それは“選んだ”というより、“選ばされた”選択だったのかもしれない。

  【仕方なかった、と言ってあげていい】

― 自分を責めるより、黙った理由に優しくなる

今の社会で「変わりたい」と言うことは、
ただでさえ脆い心に、勇気という無謀を乗せて歩くようなものだ。

 

だから私は思う。
諦めたあなたは、よくやってきた。

守るために、傷つかないために、
黙ったこと。
動かなかったこと。


それは間違いなんかじゃない。

だって、あのときのあなたは、それが“最善”だったんだから。

 

  🌿おわりに

 

私は今も自由じゃない。
自由に生きたいと思っても、どうせ無理って思ってしまうこともある。
でもそれは、私が弱いからじゃない。


そう思わせる社会で生きてきたから。

 

それでも、もし少しでも「もう一度何かを始めたい」と思ったら、
それはあなたの中にまだ“あきらめきれない光”が残っている証。

だから私は、諦めた自分にこう言ってあげたい。

「仕方ないよ。あれは、あの時の、あなたなりの“生き抜き方”だったんだ。」

 🕊シンプルフレーズ

行動しなかったのは、怠けたからじゃない。
守るために、黙るしかなかっただけ。