今月のブログは、連載形式での投稿をしていきます。

『自己を見失いながらも、哲学の思索を通して少しずつ自己理解を深めていく』

姿を描いていきます。

最後までお付き合いいただけたら幸いです。

 

主人公:加代子

正しくあろうと、正解を選びたいけど選べない葛藤の中で、

自分を否定したくなる気持ちを持っている。

 

 

『“わたし”に耳をすませる』

 

第31章:「“わかち合う”って、どういうこと?」

「ねえ、わかるよ、って言ってほしかっただけなんだと思う」
加代子は、小さくつぶやいた。
誰にというわけでもなく、自分の心の中に向けて。

 

何年ものあいだ、ずっと誰かに
「それはつらかったね」
「あなたは悪くなかったよ」
「よくがんばってる」
そう言ってほしかった。
そう言われたら、どれほど救われただろうと、思っていた。

 

けれど、今になってふと思う。

それは「承認」がほしかったのか。
それとも、「共感」がほしかったのか。

 

いや、どちらでもなくて——
「自分の痛みを、だれかに引き取ってほしかった」のかもしれない。

 

けれどその願いは、あまりにも重く、また複雑で、
たいていの人には受け取れない。
たとえ受け取ったとしても、相手を疲れさせるだけになってしまうこともある。

「誰かに“わかって”もらいたいって気持ち、
 時々、どうしようもなくなる」

思い返すと、かつての加代子は、
“わかってもらえない”という痛みを
“わたしなんて”という自己否定に変えていた。

 

「誰もわかってくれない=自分には価値がない」
そんな式を、無意識に心のどこかで信じていたのだ。

 

***

ある日、理子とカフェにいたとき。


隣の席の若いカップルが、ささいな言い争いをしていた。
「なんでそんなふうに言うの? わたしの気持ち、考えてくれたことある?」
「考えてるよ。でも、それが全部わかるわけじゃない」

 

その声を聞いて、加代子は思った。

「わかろうとしてくれること」と、「本当にわかること」は違う。

 

けれど、かつての自分は、“完全にわかってくれること”だけを望んでいた。

理子がつぶやいた。

「共感って、やっぱり“完全な理解”じゃないですよね。
 なんか、“寄り添おうとする姿勢”みたいなものなのかなって」

「……そうかもね」


加代子も、ゆっくり頷く。

「わたしね、ずっと“誰かがわかってくれるまで”
 話し続けなきゃいけないと思ってた」
「でも、最近、思うの。
 たぶん、それって逆だったんだよね」

「逆?」

「“誰かと違っていても、話せる”ことが、
 ほんとは、わかち合うってことなんじゃないかって」

「……深い……」

ふたりで笑った。

 

加代子は、さらに言葉をつむいだ。

「今までの私は、“同じになること”にこだわりすぎてた。
 同じ価値観、同じ気持ち、同じ痛み。
 でも、それは無理なことだって、今なら少しわかる気がする」

「だからこそ、今、ちがうままでも一緒にいられる関係を、大事にしたいの」

 

***

 

その夜。加代子は、日記帳をひらいた。
ペンを持ち、書き出した言葉は、かつての自分には書けなかったものだった。

 


 

“わかってもらえなかった過去”が、
“わかりあえない今”を受け入れる力になっている。

共感は、完全な理解じゃない。
でも、「わかろうとしてくれる時間」は、
かけがえのないものだったと気づいた。

誰かと、違ったまま、話し合っていけること。
それが、ほんとうの「わかち合う」なのかもしれない。

 


 

気づけば、加代子の胸には、
ほんの少しだけど、穏やかな光のようなものが灯っていた。

わかってもらえなかったことがあるから、
今、わかろうとする姿勢に、深く耳を傾けられる。

 

——それもまた、「自分を信じる」ひとつのかたちだった。

 

 

🔹次章予告:第32章「わたしという場所を、生きる」

“他者と共に考える”ことを覚え始めた加代子が、
“わたし”という存在を見つめ直す旅に進んでいきます。
個としての存在、自分の“選び”を持つことの意味とは?

 

  独り言・・・

 

深い・・・

 

分かって欲しい。

分かって貰えない。

 

伝えたい。

でも、伝え方が分からない。

なにより、人の目線や、相手の反応、自分のプライド・・・

何もかもが邪魔してる。

 

分かって欲しいけど、伝えられないモノがあるし、頑張って表現しても分かって貰えない。

共感を望んでいるのに、誰とも共感できる価値観を持てない。

 

私には私にしか分からない世界があって、私にしか持てない感想がある。

共感を望んでいるつもりなのに、共感なんて貰えない・・・

 

私自身が、他人のことを分かろうとしていないのかもしれない。

分かりたいと言っているのに、分かろうとしていない。

だから、共感も何もないんだろう・・・

 

分かり合えなくても、それで良いって言うのはただの甘えなのかな?

私が分れないから、分かり合えないってことを正当化しているだけなのかな?

 

相手が分ろうとしてくれている。

それをどうやって受け取るのか?私はどうしたら良いんだろう・・・

 

きっとその答えが”問”なんだろう