今月のブログは、連載形式での投稿をしていきます。
『自己を見失いながらも、哲学の思索を通して少しずつ自己理解を深めていく』
姿を描いていきます。
最後までお付き合いいただけたら幸いです。
主人公:加代子
正しくあろうと、正解を選びたいけど選べない葛藤の中で、
自分を否定したくなる気持ちを持っている。
『“わたし”に耳をすませる』
第13章:問いの地図をひらく
ノートをひらくたび、加代子は少しだけ指先が震えるのを感じていた。
文字を書くという行為。
それは、今ここにいる自分を「記録」する行為であると同時に、
かつての自分に「再会」する儀式でもあった。
そして今、加代子はある決意をしていた。
「私は、自分の過去を“問い”として見直してみたい」
机の上に紙を広げ、加代子は記憶のかけらたちを思い出していった。
・高校時代、美術のコンテストに落選した夜。
・新婚の頃、夫の両親に食事のことで責められた夜。
・子育て中、子どもの病気に気づかなかった自分を責めた夜。
ひとつひとつ、思い出すたび胸がつかえた。
けれど今は、それらを「罪」としてではなく、「問い」として置き直す。
「そのとき、私は何を感じていた?」
「なぜ“責められた”と感じたのか?」
「それは、誰の言葉だったのか?」
「私の言葉は、どこにあったのか?」
地図のように、線が引かれていく。
矢印が交差し、色が重なり、記憶が問いのかたちで浮かび上がる。
それは「私の人生が、失敗の連続だった」という“物語”を、
別の物語へと書き換えるための作業だった。
加代子はふと、深呼吸をした。
“書き換える”というより、“重ねていく”感覚に近かった。
否定でも忘却でもない。ただ、「見方を重ねる」。
「私は、“ひとつの視点”だけで自分を語っていたんだな……」
それは、哲学の本にあった言葉を思い出させた。
「人間の苦しみとは、唯一の語り方しか許されないときに生まれる」
──ミシェル・フーコー
“唯一の語り方”に、どれだけ自分を縛っていたのだろう。
「私はこういう人間だ」「私は失敗してばかりだ」
そういう言葉を、無意識に自分の中に刷り込んできた。
でも今、それに気づいた自分は、もう違う。
「問いは、もう一つの視点を開く扉なんだ……」
そう気づいたとき、胸の奥にふわっと風が通った気がした。
たとえ過去が変わらなくても、
問いの仕方が変わるだけで、
その意味の輪郭が変わっていく。
それは、過去に“生かされていた”ということなのかもしれない。
意味を変えることは、生き直すことだ。
次回に続きます・・・第14章否定という名前の肯定
加代子は、その“叫び”に耳を澄まそうとしていた。
独り言・・・
過去は、いつも私達に重くのしかかる・・・
失敗の経験を積み重ねることで、自分を受け入れられなくなる。
他人の心無い言葉で、自分を否定することを受け入れる。
誰も何も言ってくれない時間・・・なぜか自分を嫌いになる。
自分が積み上げて来た時間がそのまま、今の自分を縛る。
それが苦しみの一つとなることは珍しくない。
記憶を繰り返して思い出すことで悲しみを思い出す。
事実としてある以上、悲しみも・苦しみも私達の現実の一つなんだろう。
「人間の苦しみとは、唯一の語り方しか許されないときに生まれる」
→ だからこそ、人はそれぞれの語り方で自分の経験を紡ぐ必要がある。
自分で自分を縛っていたことは間違いないだろう。
他の誰かの意見を聞いたわけでもないし、他の誰かの感情に左右されているわけでもない。
いや、自分が受け取っている現実の感想は常に周囲の誰かの言葉や対応に左右されているんだけど、
それでも、自分が受け取ったのは自分の意思で見方を決めているから。
沈黙を否定と捉えている時があるように
自分の先入観や価値観によって、過去のカタチを自分で決めて受け取っているのかもしれない。
自分で繰り返し言い聞かせて、刷り込むことで・・・
「1つの価値観でのみ見ることが出来る過去の経験を作り上げていた。」
だけだと言えるんじゃないだろうか?
それは、勝手に決めつけて、決定して、固定させようとする行為
問いかけることが、見方を変えるキッカケの一つになるかもしれないけれど、
問いを持つこと自体が難しい。
だって、決まってしまっている事実として受け取っていることに、疑問なんて持てない。
現代の日本は、「正解主義」や「完璧主義」によって、心が固くなりやすい社会だから。
じゃあどうするのか?
全部にあえて反論してみるのはありじゃないかな?
今更かもしれないけれど、
「そうじゃない!」「そんなつもりは無かった!」
って、自分の受け取った過去の事実を否定して見たら、見方を変えるキッカケの一つになるかもしれないですね。
