今月のブログは、連載形式での投稿をしていきます。

『自己を見失いながらも、哲学の思索を通して少しずつ自己理解を深めていく』

姿を描いていきます。

最後までお付き合いいただけたら幸いです。

 

主人公:加代子

正しくあろうと、正解を選びたいけど選べない葛藤の中で、

自分を否定したくなる気持ちを持っている。

 

 

『“わたし”に耳をすませる』 

第9章:記憶に、もう一度まなざしを

洗濯物を干しているとき、ふいに指が止まった。

一枚のシャツ。夫が着ていたものだ。
白地にうすい青のストライプが入っている、何の変哲もないシャツ。

だが、その模様を目にした瞬間、過去の場面が頭の中でぶわっと広がった。

 

──日曜の朝、食卓で。
パンの焼き加減が焦げていた。


子どもがぐずり、加代子が返事をしないまま何かを手にしていたとき、夫が言った。

 

「お前って、ほんと段取りできないよな。だからお前に任せたくないんだよ」

 

その瞬間、頭の中が真っ白になった。
反論もできなかった。ただその言葉が、自分の人格全体を否定するように聞こえた。

 

(だから──)

 

加代子は、そのときのシャツの柄を覚えていた。
記憶は、言葉と結びついて残る。
思い出したくない場面に限って、鮮やかすぎるほどに。

 

でも今、加代子はその記憶から目をそらさなかった。

 

(本当に、あのとき私は“段取りできない人”だったの?)
(それとも、“段取りできない”という定義の枠に押し込まれたの?)

 

「私はただ、焦っていただけだった。
 子どもが泣いて、パンが焦げて、頭が回らなくなった。
 それは、“段取り”じゃなく、“状況”だったのに……」

 

声に出すと、不思議なほど胸が軽くなった。

過去を「評価」するのではなく、「問う」こと。
それが、こんなにも違うのだと知った。

 


 

午後、図書館で加代子はある哲学者の本を手に取った。
装丁は地味だが、中に印象的な言葉があった。

 

「人間の失敗とは、“間違った答え”ではなく、
 “問われなかった問い”の中にこそ潜んでいる。」

 

目の奥が熱くなる。
そうだ、私はあのとき「なぜ段取りできなかったのか」を誰にも問われなかった。
ただ、「お前はできない」と決めつけられただけだった。

でも、それは「問い」じゃない。


ただの断定、ただの裁きだった。

「じゃあ、私は──私に問いかけてみよう」

ノートを開き、書き始める。

 

「あのとき、加代子さんは何に焦っていましたか?
 子どもの泣き声、朝の空気、気がかりなメモ帳──
 全部に一度に応えようとして、体がついていかなかった。
 それは、無能だからではなく、“生きていた”から。」

 

そう書いたとき、自分の中の何かが、ひとつ剥がれ落ちたようだった。

 


次回に続きます・・・第10章 言葉ではなく、“ことば”で

「“ことば”って、書きたくない夜もある・・・・・・・」

 

  独り言・・・

 

自分の意思に関係なくされる

 

『裁き』

 

でも、そこには理由がある。原因がある。

私にだって反論したい思いがある。

 

でも、言葉にならない・・・言葉にならないと、それは受け入れたことになってしまう。

自分が受け入れたわけじゃない

相手が認識するわけじゃない

その場の環境が受け入れたっていう雰囲気になってしまう。

 

どうすることも出来ない現実。

そして、後から思いかえして

「あの時言っていれば」「私の事情も分かってないのに」

「言い返したい言葉が今あるのに・・・」

溢れてくる感情がそこにある。

 

きっと、後悔っていうモノなんだろうって今だから思える。

 

でも、今だからこそできることもある。

その瞬間には、余裕もないし、思考も回らない。何も出来ないし、言えないけれど・・・

今だからこそできる事。

その時を思い出して、問いかける。

 

ほんの少しの時間・・・答えも出ないし、誰からも返ってこない・・・

それでも問いかけることが、後悔じゃない・・・・・意味ある経験にしていくきっかけになっていくんだろう・・・。