今月のブログは、連載形式での投稿をしていきます。

『自己を見失いながらも、哲学の思索を通して少しずつ自己理解を深めていく』

姿を描いていきます。

最後までお付き合いいただけたら幸いです。

 

主人公:加代子

正しくあろうと、正解を選びたいけど選べない葛藤の中で、

自分を否定したくなる気持ちを持っている。

『“わたし”に耳をすませる』


第8章:言葉を待つということ

目が覚めると、カーテンの隙間からやわらかい朝の光が差し込んでいた。
けれど、その穏やかな光とは裏腹に、加代子の心は重く沈んでいた。

昨夜のノートの言葉が胸に引っかかっていた。

 

「問いすら持てない夜は、どうしたらいい?」

 

答えはなかった。


むしろ、「答えがない」ことに焦りさえ感じた。
問いが持てるときはよかった。けれど、言葉が出てこない日感情すらぼんやりしている夜に、自分はどう在ればいいのか──。

「問いを持ちつづけること」が哲学なら、私はそれにふさわしくないのではないか。
そんな思いが、喉の奥でじわりと広がる。

 

朝のコーヒーを淹れながら、ふとスマートフォンを手に取る。
何気なく開いたSNSで、理子がシェアした投稿が目に入った。

 

「言葉は、私たちのもとに“来てくれるもの”ではない。
 時に、私たちが“待つもの”でもある。」
 ── ある詩人の言葉

 

加代子は息を呑んだ。
それは、ずっと自分が言葉を“探しにいかねばならない”と思い込んでいたことへの、静かな反証だった。

言葉を待つ。


その発想は、どこか「祈り」に似ていた。

 

“来ない夜”に焦らなくていい。
“出てこない自分”を責めなくていい。


言葉が来ない夜も、意味がないわけじゃない──

そんなふうに考えたことはなかった。

彼女はソファに腰を下ろし、ぼんやりと天井を見つめた。

 

そういえば、幼い頃。
一人で布団に入り、天井の模様をぼんやりと見つめながら、
「世界はどこまで続いてるんだろう」と考えていた夜があった。
誰に言うこともなく、ただ自分の中で問いが渦巻いていた。

 

あの夜も、言葉は来なかった。
けれど、確かにそこには“問い”があった。

 

「……私、あの頃から哲学してたのかもしれない」

 

声に出して言ってみて、我ながら可笑しくなった。
でも、ほんの少しだけ、胸があたたかくなった。

 


 

午後、加代子は久しぶりに町の書店を訪れた。


特別に何かを買おうと決めていたわけではない。
けれど、あの詩人の言葉に導かれるように、自然と詩やエッセイの棚に向かっていた。

そこに、白い装丁の小さな詩集が並んでいた。
タイトルは、『言葉が来るまで』

まるで今の自分に差し出されたような本だった。


ページを開くと、こんな詩が目に飛び込んできた。

 

「言葉はすぐには来ない
遅れて届く手紙のように
封も切られず
胸のなかに置かれている
わたしがそれを開く準備をするまで
言葉は静かに待っている」

 

その詩に、加代子は思わず指を止めた。

 

「私がそれを開く準備をするまで──」

 

つまり、言葉が来ないのではなく、
言葉が“今ではない”ことを知っているだけなのかもしれない。

 

この詩人は、加代子の知らないどこかで、きっと同じように“言葉を待ってきた人”なのだろう。
自分の沈黙にも、意味があると信じられた人なのだろう。

その本を手に取ってレジに向かいながら、加代子はふと思った。

 

(哲学って、“考えること”じゃなくて、“待つこと”でもあるんじゃないか)
(自分の中の問いが熟すのを、慌てずに見つめることも、哲学なのかもしれない)

 

そんなふうに思えた自分に、少しだけ驚いた。
でも、それは決して居心地の悪い驚きではなかった。

 


その夜、加代子はノートにこう書いた。

「私は、言葉を“取りに行く”ことしか知らなかった。
 でも、待つことでしか出会えない言葉があることを、
 ようやく知った気がする。」

「今、私はその言葉を“待っている”。
 問いは、静かにここにある。」


 

次回に続きます・・・第9章記憶に、もう一度まなざしを

 

自分の過去を「問いとして見直す」旅


 

  独り言・・・

 

問いを持つことが、自分にゆとりを持つ方法なんだとしたら

問いを持つことが出来ない時は、ゆとりと余裕を持てない時なのか?

 

きっと、そうじゃない。

 

問いって言う疑問を持つことが出来る時は、自分が何かに出会った時なんだろう

ありふれた日常で、何も変わらない日々に対して『問い』を持つことが出来る人がどれだけいるだろうか?

 

当たり前に対して、『問い』かけることが出来るのか?

少なくとも、問いを持っている時には、当たり前じゃないんだろう。

当たり前に疑問を持って、問いかける

 

少なくとも、私には出来ない。

だって、いちいち立ち止まっていたら、日常を生きていくことが出来なくなってしまうから

その都度立ち止まって、迷って悩んでいたら

私の時間は無くなってしまう。

 

問いが持てること自体が、きっと素敵な時間になっていくんだろうけど

持てない時間があるからこそ、『問い』の大切さに気が付けるんだと私は感じてる。

問いかけることが重要じゃない。

問いがあることに気が付けることがきっと素敵なんだ。

 

答えを求めると、また正解を探して止まってしまうから

「なぜ?」が、あるだけで素敵なんだと気が付けたら、私達の世界は変わっていくのかもしれない。