今月のブログは、連載形式での投稿をしていきます。

『自己を見失いながらも、哲学の思索を通して少しずつ自己理解を深めていく』

姿を描いていきます。

最後までお付き合いいただけたら幸いです。

 

主人公:加代子

正しくあろうと、正解を選びたいけど選べない葛藤の中で、

自分を否定したくなる気持ちを持っている。

『“わたし”に耳をすませる』

 

 


第3章:うつろな言葉

「元気そうじゃん」

 

職場の昼休み、加代子は久しぶりに話しかけられた。
同僚の美咲だった。以前はよくお昼を一緒に食べていたが、部署が変わってからは挨拶程度になっていた。

 

「まあ……どうにか」

 

口に出したその言葉が、自分の耳に届いた瞬間、どこかで空洞を感じた。
元気じゃない。でも「元気じゃない」とは言えない。
本音は、どこに隠してあるんだろう。どこまでが言葉で、どこからが沈黙なんだろう。

美咲は「またランチ行こうね」と言って去っていった。
明るい笑顔。悪気はない。けれど、その言葉になぜか責められているような気がした

 

──元気そうに見えているのに、私はそれを否定できなかった。
──「元気じゃない」と言うのが、迷惑だと思ってしまった。
──本当のことを言えば、距離が生まれてしまう気がした。

そのすべてが、また自分の内側で声になった。

 

「あなたは、人の言葉にすがりながら、人の言葉に怯えている」
──そんな声が、どこかで聞こえた気がする。

 

SNSで見かけたフレーズが思い出された。

 

「言葉には力がある。でも、それがいつも“希望の力”であるとは限らない」
──ウィトゲンシュタインの再解釈として誰かが投稿していたものだった。

 

言葉には、力がある。
 

それは真実だ。


でも、言葉は人を救うだけではない。時に縛り、傷つけ、沈黙を強いる。
そして、加代子の中にはそうした“うつろな言葉”が積もっている。

 

「大丈夫?」と訊かれても、本当の気持ちを話すことはできない。
「わたしもわかるよ」と言われても、理解されている気がしない。
「きっと報われるよ」と言われても、それが自分に適用されると思えない。

 

言葉は、優しい顔をして、心の奥には届かない。
それでも、人は言葉を必要とする。
加代子は、なぜこんなにも言葉を疑いながら、それでも言葉を探してしまうのか、自分でもわからなかった。

 

その夜、ノートを開いた。
今日のことを書こうとしたが、どう書けばいいかわからなかった。
「元気そう」と言われた。そのこと自体には何の罪もないのに、どうしても心が痛む。

加代子はしばらく沈黙してから、一文だけ書いた。

 

「私は、言葉を信じたくて、でも信じられない。」

 

それは、まるで告白のようだった。
否定と肯定の間で揺れながら、それでも「書く」という行為だけはやめられなかった。

 

言葉は薄っぺらで、力不足で、誤解される。
でも、何も言わなければ、誰にも届かない
届かなくても、届こうとすること。それが言葉の“絶望と希望の両義性”なのかもしれない。

 

翌朝、加代子はノートを手に、ふと小さな検索をした。


「哲学」「沈黙」「言葉を信じられないとき」

その中に、レヴィナスという名前があった。


“言葉は、他者に対する応答として生まれる”──そう書かれていた。

 

加代子は、そこに小さな光を見た気がした。
「応える」ために言葉はあるのだとしたら。
まずは、自分に応える言葉から始めていいのかもしれない。

そう思いながら、彼女はノートの最後にもう一行だけ書き足した。

 

「それでも、わたしは言葉を手放さない。」

 


 
次回に続きます・・・第4章 
加代子が“他者との距離”について新しい問いを持ち始め・・・
 

 

  独り言・・・

 

人の言葉に対して、思うところはある。

でも、思ったことをそのままに伝えることは出来ない。

 

少なくとも、私は思ったことを簡単に口にして良かったことが無い。

 

「口は災いの元」よく言ったものだ。

 

かといって、吐き出さないと思いやいつまでも残ってしまう。

その想いの向けどころをどこに持って行くのか?

むしろ、どこかに向けて吐き出す必要はあるのか?思いは本当に自分の気持ち?

単純に相手の言葉を肯定したくないだけの天邪鬼なんじゃないのか?

 

結局答えはいつも見つからない。

 

言葉に出来て表現できることもあれば、言葉にならない何とも言えない分からないモヤモヤが必ずある。

 

そのモヤモヤこそが、私達が生きているって、実感できる瞬間なのかもしれない。