今月のブログは、連載形式での投稿をしていきます。
『自己を見失いながらも、哲学の思索を通して少しずつ自己理解を深めていく』
姿を描いていきます。
最後までお付き合いいただけたら幸いです。
主人公:加代子
正しくあろうと、正解を選びたいけど選べない葛藤の中で、
自分を否定したくなる気持ちを持っている。
『“わたし”に耳をすませる』
第2章:問いのかたち
「なぜ囚われていたのか?」
ノートに書いたその問いを、加代子は何度も見返していた。ペンでなぞった文字は、書き手の迷いをそのまま刻んでいる。
にじんだインクの線は、まるで自分の輪郭のようだった。
その日は日曜だった。
リビングには夫のいびきが微かに聞こえている。テレビの音もない。時計の針が進む音が、やけに大きく感じられた。
加代子はスマートフォンで再び「カミュ」の名前を検索し、そこから「不条理」という言葉に出会った。
「世界は意味を持たない。だが、それを認めた上で、それでも生きるべきだとするのが、反抗である。」
──アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』
意味を持たない世界。
それは、今の自分の生活にも通じるような気がした。
毎朝起きて、家族の弁当を作り、職場へ向かい、疲れて帰り、誰にも認められない。
意味はあるのか?
誰かの役に立っているのか?
誰かにとって、私は必要なのか?
そう考え始めると、喉の奥が苦しくなる。
「意味を見出せないこと」は、痛みになる。
だが、カミュは言った。意味がないからこそ、それでも生きることに価値があるのだと。
「肯定ではなく、“受け入れ”か……」
加代子は、少しずつ理解し始めていた。
肯定の言葉は時に、力強く聞こえる。
「あなたは素晴らしい」「きっとできる」「意味がある」
でも、それらの言葉は、時として自分に届かない。
なぜなら、それを信じられる土壌が、自分の中にないからだ。
それならば。
否定の言葉に寄り添う哲学があるのなら、それを頼りにしてもいいのではないか。
自分は意味を感じられない。けれど、それでも毎日を生きている。
それ自体が、すでに何かの「反抗」なのかもしれない。
加代子は、深く息を吐いた。
肯定の言葉に溺れたとき、自分を偽ってしまうことがあった。
「がんばってるよね」と言われても、「そんなことない」と心が叫んだ。
言葉は優しいはずなのに、自分を置いてけぼりにすることがある。
言葉に“癒されるふり”をすることほど、孤独なことはない。
だから今、否定を否定しないことが、最初の肯定なのかもしれない。
「意味がないから、問いが生まれる。問いがあるから、生きていられる」
加代子はそうノートに書いた。
それは誰かの引用ではない。
自分の中から出てきた言葉だった。
その言葉には、すこしだけ体温があった。
次回に続きます・・・第3章
次の章では、加代子が「言葉の不信」と「言葉を紡ぐ希望」の間で揺れながら、思索を日常に持ち込む過程
独り言・・・
人は本当に言葉の力に抗えない。
人の言葉に振り回されるように、名言や論語に価値観を左右されることもある。
それが、時として自分の力になったり、生きるための活力に出来るなら素敵なコトだと思う。
哲学っていうモノに私が出会ったのは、ずっと昔だった。
初めて読んだのは「ソクラテス・カフェへようこそ」
読んだ時は、疑問を持つことの楽しさを感じただけで、深く考えることも
その後の自分に有効に取り入れることも出来ず、忘れていた。
それが、今になって自分が文字を書くようになった時に、自分の表現していることが
ずっと昔にみかけた本に近いように感じたのが最近のコト。
思い出したように、哲学の言葉・・・先人たちの生き方を見ていく中で、今の私だからこそ
感じる思いがあり、見える世界がある気がする。
気がするだけで、なにも分かりはしないけどね。
不思議に感じたこと・・・それが全て哲学の始まりで、意味のないことが意味であって
人を分からないことが分かっている。
そして、自分のコトを分からないことを知っている。
それで良いんだって、分からないから良いんだって思えたら素敵かな。


