誰かの為の正義の見方やお助けマン?にはなれない
誰かの為に生きられるほど、私は強くないし
自分の犠牲の上の誰かの幸せがあって、それが自分の幸せって言えるほど私は聖人ではないんだろう。
私は、私の幸せを探した先に、誰かの幸せがある事を願うよ。
誰かの幸せの為に生きるんじゃない。私の幸せのカタチの為に誰かの幸せが欲しい
きっと、みんな誰かの為に生きている。
家族の為
会社の為
なんだかんだと理由を用意して、その理由の為に自分の意味を見つけて
生きる理由にして、苦しい時も辛い時も逃げ出さないようにして、そして自分を犠牲にしながら生きている。
だから、
苦しいって思う時もあるし、心が折れそうな時もある。
だれかに愚痴りながら、文句を言いながら、現実を乗り越えて
今の自分の現実を向き合いながら生きている。
その現実を変えたい!って思うから、【自己啓発】や【スピリチュアル】の世界に興味を持つし
今まで無かった考え方を持つことで、今の現実を受け入れようとする。
自分の持っていない力や、知識を頼って、変えられない自分と、変えられない現実の中で・・・
なんとか希望を持ちながら生きていこうとしている。
もっと言えば・・・
自分一人じゃ何ともできないし、解決出来ないし、乗り越えられない何かがあって・・・
受け入れられない・認めたくない事実を、変える方法を探している。
例えば・・・
借金がある。とても返しきれないような多額の負債を抱えていて・・・
その現実から抜け出したいと思っている
健康に問題がある。普通って言われる人たちとは、体なのか、メンタルなのか
違うものを持っていて、問題とされていて・・・
普通の生活が出来ないって言われてしまう。
家族が・・・配偶者が・・・肉親が・・・
自分が認めたくないような状況になってしまった。
犯罪・不登校・リストラ・不倫・・・
自分だけでは解決出来ない。でも、それを見捨てて生きていけるほど自分は強くないし、勇気もない。
受け入れたくないし、認めたくないけど・・・
自分の目の前にその現実は存在している。
だから・・・私が犠牲になればいい?犠牲になれば誰かが救われる?
自分を犠牲にすることで、誰かの幸せが作れるかもしれない?
私は、否定する。
私達は誰かの為に生きているんじゃない。
私達は、自分自身の幸せを探して、それを求めるために生きている!
絶対、否定していい!
自分を犠牲にした誰かの幸せは、あなたの人生においてあなた自身の幸せより重くはならない。
仮に、子供の幸せを願う親だとしても・・・
子供の幸せの為に犠牲になる親が居たら、親の犠牲・・・悔しくて悲しくて辛い親の顔を見ながら幸せになれるのか?
考えてみて欲しい。
もし・・・親の犠牲の上でも幸せを感じられる子がいるなら、その親はきっと子の幸せを願っていない親だろう。
その意味が分からない、あなたじゃないよね?
『あなたの幸せの先にしか、あなたの大切なモノの幸せは存在しない!』
これだけは断言できる。
むしろ、そうであることを願っている。私は子供たちの幸せを願っている。
今だから感じられるだけかもしれないけれど、私はいつでも子供たちの幸せを願っていて、
幸せの笑顔があるんだとしたら、子供の笑顔があって、苦しくて、悲しくて辛い顔には・・・多分ならない。
子育てしていて、過酷な環境は重々承知しているから、今!その瞬間に!それを感じられるとは言えない。
あくまで私は、脱線してしまった側の人間だから・・・感想を言えるだけのコト。
直面している状況では持つ感想も違う。
だからこそ言いたい。
あなたが今苦しんでいるかもしれない。
辛いかもしれないし、逃げ出して、投げ出したいかもしれない。
その気持ちは正しい。
自分の幸せの為の行動をしたら良い。
幸せになる為に、笑顔になる為の方法を考えて、その道を探して行くことが正しい生き方だろう。
耐えて、我慢して、状況に流されるだけが生きる意味じゃない。
自分の幸せのカタチを探して
自分の大切なモノを見つけて
自分の大切なのもを大切にして、幸せのカタチを実現していくことが、生きる意味になる。
自分の幸せのカタチを探して行くときに・・・
誰かの為
誰かの幸せ為に
なんてことを言いだしたら、全部人のせいになる。
苦しいことも、辛いことも、悲しいことも、今の現実も誰かのせいになる。
それは誰も幸せにならないだろう。
だらか、必要なのは、
自分だけの幸せのカタチを見つけて、その為に生きていくこと。
もし可能なら、その幸せのカタチを誰かに伝えて・・・大切な存在に伝えて・・・
全ての言動や行動の意味と理由を明確にすることが、きっと素敵なカタチだろう。
だって、あなたの幸せのカタチの先には・・・誰かの幸せに繋がっているんだから。
私は、自分の為に生きる。それが誰かの為になることがきっと素敵なこと





