その人が大切にしているモノは、他の誰かには分からない。

 

あなたが大切に思っているモノ、守りたいモノ、信じているモノ。

それが何なのか私には分からない。

 

だから、それを否定する権利は私にはない。

 

自分の価値観で人を否定するのが許せない。

 

誰でも、自分だけの特別を持っているだろう。

 

自分だけの特別で大切なモノ・・・

多くの人が、家族や友人や恋人をイメージするだろうし、お金や車や装飾品って言うかもしれない。

それは、ある程度多くの人が共感してくれるだろうし、理解してくれる。

 

それは、価値観が近いからって言えるだろう。

 

「大切なモノは何か?」って聞かれて、答える機会自体は少ないかもしれないが、

なんとなくそういうモノだろうって、感じている人が多いんじゃないだろうか?

 

逆に言えば、それらを言えば当たり障りなく、非難もされず、指摘も文句も言われず、簡単に終わらせることが出来る。

もし仮に・・・

「大切なモノは何か?」って質問に、宗教や占いや風水のように、目に見えないモノを答えたら?どうなるのか。

想像しなくても分かるんじゃないだろうか?

白い目で見られることもあれば、考え直せとアドバイスを貰うかもしれない。

距離を取られることもあるだろう。特に宗教に関しては、日本には苦手意識を持っている人がとても多い。

それは・・・ね。仕方ないことかもしれない。

実際に迷惑を感じてしまっている人がいる訳だから。(例を上げなくても分かるだろう。)

でも実際には、問題になっているのは一部の集団と、一部の人達だけ。

他の大部分の人達は、特別迷惑を掛けることなく、過ごしている。

それなのに、その全てを否定する理由にはならないだろう。

 

  考え方の違いは、表現の違い

 

何を感じて、考えて、思って、それをその人が大切にしているのか?どうか?って言うのは、

他の誰かが否定するのはおかしいんじゃないか?って私は思う。

 

その人は、それが良いと思って生きているんだから、それを否定したら、その人の大切なモノを否定しているのと同じじゃないだろうか?

もちろん、ルールと法律がある世界で、その範囲内での自由である必要はある。

なんでもかんでも、良いと言ってしまえるわけでは無い。

でもそれは、ルールや法律を犯してはダメだ!と言うだけのことで、犯さない限り・犯す恐れが無い限りにおいては、

それぞれの価値観を重要に思って良いと私は考える。

 

例えば・・・

異性が好きだとする。(普通のことだろう)

逆に同性が好きだとしたら。(今でこそ認められるかもしれない)

それで何が問題なのか?問題はないんじゃないだろうか?

それなのに、「女好きだ!」「男好きだ!」って非難する人が一定数居るだろう。

なんの価値観が合わないのか?なにが問題なのか?

 

不倫?浮気?不特定多数?それって、時代や状況や立場で違うだろう。

それなのに否定するのは、相応の理由があるんだろうと思う。でも、その否定する人達も恋愛や結婚の回数が一回とは限らない。

なのに誰かを否定するのは、なぜなのか?

例えば・・・

お金が大好きで、とても執着する。(しない人がいるなら、下さい。)

普通じゃないのか?

自分の大切な時間を使って、稼いだお金。なにより重要なモノだろう。

身を削って、自分を犠牲にして、対価として手に入れる金銭。執着しない方がダメじゃないか?

執着してでも大切にしないと、自分を大切にしないのと同じじゃないだろうか?

 

それなのに・・・

「ケチだ」「意地来たいない」「守銭奴」だと、非難する人が一定数居る。

お金を大切にして何が悪いのか?資本主義の世の中で、お金に勝る価値が何にあるのか?

そこで【愛】や【命】と比べる人が、居るだろう。確かに分かる。『プライスレス』お金じゃ買えないのは本当に分かる。

でも、お金無くしてその【愛と命】守れるのか?この国で?

きっと、問題があるとしたら、表現の仕方なだけ。

過度な表現に、周囲が反感を持って、必死に否定しているんだろう。

そして、周囲が否定すると、さらに同調して多くの人が非難して、否定して、悪にしようとする。

 

考えを表現した時に、否定される。

でも表現しなかったら、それもまた否定の対象になる。

 

みんな、自分の価値観と本の少しでも違うと、『ダメだ』「間違っている」『悪いことだ』「ダメ人間だ」とすぐに拒絶して、

自分の正当性を主張する。

その正当性が、個人の価値観だと認識せず、世間と常識でルールでモラルだと言い張るから、困ったものだね。

 

 

  価値観が違うのは、仕方ない。表現のその先が解決の糸口

 

価値観なんて合うことが少ないのに、誰かと違うからってその人を否定する理由にはならない。

否定する時は、表現が違うだけで本質は大差ないはず。

 

愛のカタチを語る人に限って、すごく異性が好きだったり

お金の使い方について語る人に限って、人のものを見てねたんでいたり

 

でも、だからと言ってその人の大切を否定する理由にはならない。

それは、その人の考え方があって、その考え方を表現しているだけだから。

 

それを、頭ごなしに否定する人が残念に思えるだけのコト。

相手の表現だけを見て、「異性が好きだと、大好きだと」言っている人を「女好きだ!」「男好きだ!」と断じることが、非難の対象にあるべきじゃないだろうか?

その表現されている言葉の本質を理解しようとしない、ことが問題でトラブルの原因になっている。

 

言葉や態度、行動がなにを意味しているのか?

相手に対する「なぜ?」をしていない時点で、問題の解決に向けた行動にはなっていない。

ただ非難して満足する、大衆の状態になっているだけ。

価値観は確かに違う。だから表現方法も変わってくる。

それでも、本質的に理解できる部分が必ずある。

異性が好きにしても、お金が好きにしても、結局はみんな同じじゃないかな?

それが、信仰でも、占いでも、なんだとしても・・・大切に思っているモノは全然みんな違うかもしれない。

 

大切に思っているモノが違うだけで、大切なモノがある事には違わない。

だとしたら、それを否定して、攻撃する理由が私には分からない。

 

だから自分の価値観は、自分だけが大切に出来て、

自分が信じられるものは、自分だけが信じて

大切なモノは、自分が大切にしたらそれで良い。

 

誰かを否定して、攻撃したり、共感を強要するなんて言うのは、私的にはナンセンス。

私は、私の価値観で、自分を大切にして生きて行けたら

それで十分素敵に輝けるって信じてる!

それが幸せじゃないなら、きっと私とあなたの価値観が違うだけ(#^.^#)

 

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