人は思ったことを言いません。

ときに思っていることと違うことを言います。

表情だけではくみ取れません。

他人のバックボーンなんて知りません。

そんなに知ったつもりになっても、

全てを知る売ることは不可能なのに。

 

ましてや他人の好意など。

人は目的なく他人に好意をいだきません。

 

他人に夢を見るのは結構。

しかし、それはあくまでも夢なのです。

 

私たちは他人を本当に理解することはできない生き物です。

私たちは災害に勝てません。

備えることはできます。

その備えが、ときに命を救うことにもなりえます。

 

しかし、私たちは備えません。

どんなに声を大きくしても。

死にたいのでしょうか。

それとも、自分だけは大丈夫だと思っているのでしょうか。

過去の出来事から、いくらでの備える知識を学びました。

いつでも手に入る備えもあります。

 

私たちは備えない生き物です。

私たちは常にだれかに責められています。

それはリアルの他人に。

そして、私の頭の中のだれかに。

 

ああ今日もやってしまったと、何かを後悔するのは

だれでしょうか。

過去の嫌なことを思い出し、苦しくなるのを止められず、

それは自分自身のせいなのだと、

終わったことなのに、どうしようもないことなのに、

ひたすら責め立ててくる私の脳内に棲む生き物はだれでしょうか。

 

私の軸を作った親など大人でしょうか。

じぶんでしょうか。

 

私たちは常に責められている生き物です。

 

今日、街中で大きな声で呼びかけても、だれの心にも響くことはないでしょう。

変質者扱いされて捕まるのが関の山。

 

それは何故ですか。

私の見た目ですか。

私の立場、権力ですか。

私の有名度ですか。

 

今日も私はこのブログという居場所で1人意義を唱えます。

 

私たちは社会に何の影響力も持たない生き物です。

 

私たちは親を選べません。

何もできない子どもであれば、いかなる状況にも耐え忍び、親の言うことが全てです。

世界の中心は親です。

親の気分で世界が回ります。

常に機敏に対応できるように神経をとがらせ、私たちは生きるのです。

 

軸が親の気分なら、その親を失ったとき私たちは何を軸にまわればよいのでしょうか。

ふと周りを見渡した時に、己と他人の違いに気が付き、私たちはさらにくるっていくのです。

 

私たちは親を選べない生き物です。