菩薩とか神さまとかは、
すがるものじゃなくて目指すものなんだよね。


友達が言ったこの言葉が私にスーッと身体に染みて、深い気づきになった。


私は、
〇〇のようにすれば、
〇〇の側にいれば、
〇〇すれば、
〇〇になれば、
あの人みたいになれば、
幸せになれると思ってたんだ。


“〇〇すれば幸せになる”と
“〇〇”にすがってたんだ。


人の役に立ちたいとか、
人を幸せに出来る自分になりたいとか、
人を満たせる自分になりたいとか、


そんなたいそうなことを掲げて、
保育のこと、心のことや、それを伝える方法を学び、
保育士やカウンセラー、セラピストの道を歩んできた。


人の役にたてば、私に価値があると思えた。
人を幸せにすれば、人の悩みを少しでも軽くすれば、私に価値があると思えた。
人を満すことができれば、生きる意味があると思えた。


私は・・・、
人に役に立つ自分、
人を幸せにする自分、
人を満たすことのできる自分を必死につくりだして、そこにすがってたんだ。


すがって、すがって、
良さそうなことをしている自分に価値を見出して幸せにしてもらおうとしてたんだ。


保育士として子どもや保護者の方々、保育士さん達を幸せにしたら、私も幸せになれるよね。
カウンセラーやセラピストとして、気づきや救いになれたら、私は幸せにしてくれるよね。
素敵なお母さんしてたら、私幸せになるよね。


…こんな感じで。
うひゃー(////)
だから、なんとも言えない苦しさがつきまとってたんだ。


私が幸せになるには、
〇〇が出来たら、〇〇になったら、だったんだ。。

今の私に必要なのは、
今のまんまで価値がある自分を知り、感謝し、愛すること。
何の条件なく居るだけで価値がある存在を私が知ること。


それに気づいたら、
こうならねばとか、あの人のようにしない自分や出来ない自分を責めたりあがいたりして苦しかったのがスーッと消えた。


私はただ、
何も特別なことをしない自分の価値を私が充分に知ればいい。
そのまんまの私の願いを私が聞いて、私を幸せにしたらいいんだ。


まず、私だった。


知ってはずなのに、知らなかったなあ。