seigi | へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

ごめんなさい。メンテ頭になかったです~。


。。。。。。。。。。

【詩篇11篇】o19 指揮者のために。ダビデによる
psm11:1 主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
psm11:2 それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
psm11:3 拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」
psm11:4 主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。
psm11:5 主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。
psm11:6 主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らの杯への分け前となろう。
psm11:7 主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。
。。。。。。。。。。

おはようございます。
最近忙しく、身体がついてこないことが多いわ。
なんとか踏ん張ります。お互いがんばりましょね。


では早速詩篇を共に。
今日僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm11:7 主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。



どうでしょ。
もし、神さまという存在が正義を愛されないなら・・・?!
恐ろしくないですか?
考えられませんね。


神様は正義を愛されてる。





どんな状況でも負けないで居たいですね。
サタンがあらゆる場所でしたい放題ヤンチャしてますが、
なんとか
踏ん張りましょう。


きっと、神様が僕らを見つめて居られるんですから・・・ね。

大丈夫!

絶対大丈夫!!


心が否定しても、バイブルの言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?



僕らは今日も大丈夫!!



神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


a-men.









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http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs11
詩11篇「正しい者」צָדִּיק ツァディーク   צְדָקָה ツェダーカー 〔カテゴリー防衛〕  
7節「主は正しく(צָדִּיק)、正義(צְדָקָה)を愛される。」
Keyword; 「正しさ、義、正義」 right, righteousness,
10篇までの弱者のイメージを持つ表現が一掃され、詩11篇では「正しい者」ということばが目立ちます(3, 5節)。「正しい者」とはどんな者かを、この詩11篇は私たちに考えさせてくれます。


「正しい者」と訳されたツァディークצָדִּיק(tsaddiyq)は形容詞。名詞はツェデクצֶדֶק(tsedeq)で、正しさ、義、正義、救いと訳されます。ツェデクצֶדֶקは倫理概念ではなく、関係概念です。倫理概念が先に来てしまうと、このことばの意味するところから外れてしまうように思います。つまり、義とは、神との正しいかかわりを意味し、「義人」、あるいは「正しい者」とは、その正しい神とのかかわりをもたせていただいた者ということになります。この詩篇でいうならば、1節にある「主に身を避ける」者のことです。

詩11篇では、共に信仰の道を歩んできた仲間たちが「拠り所がこわされたら、正しい者に何ができようか」と言ったことについて、作者は違和感を抱いたようです。普段気づかないことが、ある危機を契機に、信仰の違いに気づかされたのです。彼らの言う「拠り所」とはいったい何なのか。「拠り所」をどこに置いているのかが明確にされたのです。

「拠り所」と訳されたセートשֵׁת(shet)は、「根元」、「基」、「基礎」、「いしずえ」、「世の秩序」とも訳されることばです。詩篇ではここ11:3にしかありません。主にある者たちにとって、本来、「拠り所」がこわされることはあり得ないことです。危険が迫ったとき、どこに身を避けるか、どこに逃げるかが問われます。作者にとっては、主こそゆるがない拠り所であり、そこに身を避ける(逃れる)者こそ「正しい者」だという認識を持っていたようです。「拠り所」とは、自分を支えてくれる柱であり、基であり、根源です。その拠り所がこわれたならば「正しい者」はひとりもいなくなるはずです。

4, 5節を見ると「・・主の目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。主は正しい者と悪者を調べる」とあります。主は天から「正しい者」がいるかどうかを「見通し」ておられます。この「見通す」ということばはハーザーחָזָח(chazah)です。注視する、よく観察するといった意味です。また、「調べる」と訳されたバーハンבָּחַן(bachan)は真偽を点検(テスト)するという意味です。なぜなら、「主は正しく、正義を愛される(好まれる)からです。」

7節後半では「正しい者」が「直ぐな人(ヤーシャルיָשָׁר)」に言い換えられています。とすれば、「正しい者は主に身を避け」と「直ぐな人は主の御顔を仰ぎ見る」は同義と考えることができます。いみじくも、「仰ぎ見る」と訳されたことばは、主の目は「見通す」(4節)と訳されたハーザーחָזָח(chazah)です。お互いに目と目とを合わせて、親しく交わることのできる者―それが「正しい者」だと言うことができます。罪とは「主の御顔を避ける」ことであり、逆に「主の御顔を仰ぎ見ること」が義、正義、救いです。
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