与えられた気づきから・・・ | へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

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僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

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【詩篇1篇】o19


psm1:1  幸いなことよ悪者のはかりごと に歩まず、罪人の道 に立たず、あざける者 の座 に着かなかった、その人。

psm1:2 まことに、その人は主のおしえを喜び とし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

psm1:3 その人は、水路のそば に椊わった木のようだ。時が来ると実がなり 、その葉は枯れない。その人は、何をしても 栄える。

psm1:4  悪者 は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。

psm1:5  それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどい に立てない。

psm1:6  まことに、主は、正しい者の道 を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。


 

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おはようございます。

今日は土曜日。お仕事の方も多いと思いますがイッチョ頑張りやしょう。


では昨日詩篇最終章終わったんで今日は最初から

改めて見ると素敵を更に発見できるから楽しみですよ~。

では早速。





今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm1:2 まことに、その人は主のおしえを喜び とし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。




主(神様)の教えを喜びと出来るのは


まず、①神様の存在に気付くこと

そして、②その方が全てを秩序立てて全てを創られたことを知り

③僕らの繋がりをぶっ壊そうとサタンが働いている事を知らなければならない。




神様は僕らをとことんまで愛されているが故

僕らが神様の存在を忘れてしまっていても

絶えず僕らに声を掛けてくださっている。


気付くことが出来れば

僕らは神様の教えであるバイブルを通して語られる言葉に耳を傾けることが出来る。




神様は僕らを素敵な水路に移し変えて下さる方。



先ずは、

気付くことから

気付くことが出来たら、言葉を発してみましょう。

詩篇の作者と共に。



水路の喜びは、

信じた行動から始まる。

サタンの支配の中から、神様を選び、神様の言葉を発する事から。。




今日からまた詩篇宜しくお願いしますね。

では、今日も神様の水路(大庭)を楽しみながら、大胆に過ごせますように。


eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。



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詩1篇 「植える」 שָׁתַל シャータル                  

3節「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。」(新改訳)

3節「・・・・・流れのほとりに移し植えられた樹のように」(関根訳)

Keyword; 「植える、移植する」  planted, plant, is transplanted 1:3/92:13 

  • 詩篇における最初の恩寵用語―神が人に対してなされる恵み深い行為を表わす動詞―として取り上げたいのは、「植える」という動詞です。ここでは、幸いな人というのは、「水路のそばに植わった木」にたとえられています。
  • 「植わった木」とは、本来のそこにあった自然木ではなく、異なった場所に植わっていた木を水路のそばに(水の流れのほとりに)移して、植え直された木のことです。大切なのは、木ではなく、その木を水路のそばに移植した主体の存在です。水の流れのほとりに移し換えられることで、どんなに灼熱の太陽の下でも、決して枯れることがなく、むしろ、根を深く下ろして頑強な木として成長し、多くの豊かな実を結ぶようになります。
  • 使徒パウロは「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1章13節)と述べています。「暗やみの圧制から愛する御子のご支配の中に」です。この「移し変えの恵み」が、詩1篇にはっきりと描かれています。
  • 「植わった」と訳されたシャータルשָׁתַל(shatal)は救出用語です。旧約では10回、詩篇は2回使われています。92篇13節では植えられた場所が、水路のそばではなく、主の家、神の大庭とあります。また、この動詞はエレミヤ書(17:8)やエゼキエル書(17:8, 10, 22, 23, 19:10,13)にも見られます。エゼキエル書では、木が「ぶどうの木」、「杉の木」とされていますが、いずれも神ご自身がそれを植える(移植する)ことが強調されています。
  • 詩1篇の木は、常緑樹の「なつめやし」(棕梠)だという説があります。その木は1本につき6~7房の実をつけますが、その一房にはおよそ千個の果実があるそうです。乾燥させるとその実はとても甘く、栄養価も高いようです。そして、その木が十分な結実を見るまでには、実に40年の歳月を要し、しかも150年もの間にわたって結実を続けるのだそうです。エレミヤが「主に信頼し、主を頼みとする者・・は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、・・いつまでも実をみのらせる」(17章7~8節)と言ったように、主に祝福された者をなつめやしにたとえることは、実に、妙を得ているのです。
  • 私たちはすでにキリストといういのちの水の源泉にふれています。このキリストのうちに神の知恵と知識との宝がすべて隠されています。ですから、キリストのことばを私たちのうちに豊かに住まわせ、キリストの中に根差し、主にある者と共に建てられていく者とされているのです。

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