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psm119:17 あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。
psm119:18 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
psm119:19 私は地では旅人 です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
psm119:20 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。
psm119:21 あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります。
psm119:22 どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。
psm119:23 たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。
psm119:24 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。
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おはようございます。
最近は晩遅くまでの作業がある程、仕事が大変。。
与えられた問題だけを見るのではなく、解決される先をみながら過ごしたいモンです。
では早速今日も詩篇を。
僕の心に留まった言葉はコレ。
私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
目を開いてください。とは、今僕らは目が閉ざされているっていう事だ。
何から目が閉ざされているのか?
何だろう?
以前マトリックスという映画が上映された。
実は僕はDVDを購入してる。
此処には僕らが知らされない世界が描かれてて・・・。
でも
此処にはバイブルに記された世界観を見事に描かれている。
見えていなかった。
僕には全くこんな世界は空想の世界や・・・。と思い込んで映画を楽しんでただけだった。
詳しくはまた今度別の機会にさせて頂きますが、
要するに僕らは肉体に制限されている為に、霊の世界を意識してみていかないと全く隠されているって事。
神様は全てであり、霊でもあり
僕らは神の息(霊【命】)が吹き込まれて生かされた。
僕ら神様によって創られた人は、神様に背いてその霊【命】を失った。
僕らは霊による視点を失った。
そして、サタンはその視点に立ち返ることのないように煙幕を張り続ける。
私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
詩篇の作者はソレを知っていた。
そしてこの詩篇を僕らも同じ心で言葉を発する事が出来る。
解らなくてもいい。
解らなくて当然なんだから。だから、こんなバイブルの箇所もある。
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
eps1:18 また、あなたがたの心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
eps1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて 、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座 に着かせて、
eps1:21 すべての支配 、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
eps1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下 に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
eps1:23 教会はキリストのからだ であり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
神を知るための知恵と啓示の御霊・・・与えられるように。
心の目がはっきり見えるようになって、・・・どんなに僕らが凄い状況にあるか知ることができますように。
僕は、まったくバイブルを理解できない時
この箇所を自分の祈りの言葉として毎日・毎日言葉として発し続けた。
・・・解ってきた。
不思議だけど、霊の世界は霊によって知らなければ知ることが出来ない。
肉体にある知識でそれを求めても、
解決に到達できるはずが無いのも本当は当然だ。
楽しみにして
今日も詩篇を言葉にして発していきましょうね。
では、今日も神様が創られた素敵な一日。
隠された素敵を捜しに今日も一緒にでかけましょう。
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18節「私の目を開いてください。私があなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」 (新改訳)
18節「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力に、わたしは目を注ぎます。」(新共同訳)
Keyword;「開く、覆いを払う」 to uncover, reveal, open, 18:15/98:2/119:18, 22/
- 目を「開いて」と訳されたガーラーגָּלָה(galah)は旧約で189回も使われながら、詩篇ではわずか4回です。「覆いを取り払う、明らかにする、啓示する、隠れていたものが現われる、裸になる」という意味ですが、同時に、「移す、捕囚に行く、捕囚に連れて行く」という意味もあります。捕囚という経験によって視点が移されることで初めて明らかにされるという意味あいです。イスラエルの民は、まさに捕囚の経験を通して、神によって賦与されていた「律法」(神の教え)の中に隠されているすばらしい神の祝福、その驚くべき素晴らしさに目が開かれたのでした。
- そのすばらしさを作者は、「私の喜び」(シャアシュイームשַׁעֲשׁועִים、動詞はシャーアーשָׁעַע)と表現しています。この表現は、旧約においては5回、しかもその5回はすべて詩119篇にあります(23, 77, 92, 143, 174)。このことは何を意味するのでしょうか。おそらく、この喜びはイスラエルの民をリセットすべく捕囚を許された神によって、彼らの霊の目が開かれて、その教え(トーラー)のすばらしさに目が開かれたことによるものです。しかも、ヘブル語では普通、「喜び」を表わす語彙がサーマフשָׂמָח―(joy, rejoice)であるのに対して、ここでの「喜び」はシャーアーשָׁעַע―(delight)です。前者の「喜び」は、ある特別な事柄、経験によるものであるのに対して、後者の「喜び」は日常的な喜び、楽しみを意味します。
- トーラーが日常的な「喜び」「楽しみ」であるということは、そのすばらしさにいつも心が開かれ、それに目を留め、それを慕い求めるトーラー・ライフスタイルが築かれていたことを物語っています。「楽しみ」というのは、時間を忘れさせるだけでなく、創造性を引き出す力です。疲れることを知りませんし、より豊かな発想や着想が生まれる源です。
- ところで、目を「開いて」と訳されたガーラーの使用例として、民数記22:21~35節をあげることができます。バラムに忠実に仕えて来たろばがバラムの足を石垣に押しつけたり、うずくまったりしたことで、バラムは怒ってろばを杖で打ちました。「そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。」とあります。「目のおおいを取り除かれ」なければ、バラムはモアブの王バラクの指示によってイスラエルの民を呪うところでした。ところが、神はろばを通してバラムの行こうとする道をふさいで阻止させようとしたのです。バラムの目が開かれたことによって、彼は神のみこころから外れることを免れたのでした。
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