しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行なう人は。 | へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

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僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

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【詩篇112篇】o19


psm112:1  ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。

psm112:2  その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。

psm112:3  繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。

psm112:4  主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。

psm112:5  しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行なう人は。

psm112:6  彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。

psm112:7  その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

psm112:8  その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。

psm112:9  彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。

psm112:10  悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。


 

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おはようございます。

昨日は金冠日食みれましたか~?僕は作業をやってる間に見損ねてしまいました。

ま~次の機会に。(次はないだろうけど・・・)



今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行なう人は。




で、

僕が思い出した言葉がある。

このマザーテレサの言葉。



人は、不合理、非倫理、利己的です。

それでも気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。

それでも気にすることなく、善を行いなさい。



目的を達成しようとする時、邪魔立てる人に出会うでしょう。

それでも気にすることなく、やり遂げなさい。



善い行いをしても、おそらく次の日には、忘れられるでしょう。

それでも気にすることなく、し続けなさい。



あなたの正直さと誠実さが、あなたを傷つけるでしょう。

それでも気にすることなく、正直であり続けなさい。


あなたの親しみやすさは、あなたを容易に傷つけるでしょう。

それでも親しみやすくありなさい。



あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。

それでも気にすることなく、作り続けなさい。



助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。それでも気にすることなく、助けなさい。


持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。

それでも一番いいものを分け与えなさい。


あなたの中の最良のものを この世に与えなさい。

あなたがそれが十分でなくても気にすることなく、最良のものをこの世の与え続けなさい。



最後に振り返ると、あなたにもわかるはず。

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。






なんか凄いよね。

僕なんか 恐れ でいっぱいになる。

色んな人の目が気になって、いいことだと解っても身体が動かなかったり

何を云われるかを気にして、何も出来ない無力な自分にいつも出会う。

 

psm112:7  その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

psm112:8  その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。




でも。

神様の本質に満たされた時、僕らは恐れという概念も完全に忘れてしまうくらいになるんだと思わされる。

神様の本質。

それは、『 愛 』

僕らはそもそもその神様に似せて創られた。

本当は 『 愛 』 に満たされる時、本当の僕ら自身を知る事になるんじゃないかとも思う。


1jhn4:18  愛には恐れ がありません。全き愛 は恐れを締め出します。



僕らに愛がない。。。

そう落胆している方は、騙されているのかもしれない。

僕らは愛そのものの方に似せて創られ、本来の自分自身に立ち返るとき

僕らは、恐れを知らない素敵な香りを放ち始める。



僕ら自身を知る必要があるのかも。

それには、神様と自分との関係をちょっとづつ知っていくといいかも。



本来の僕らは本当に神様の目には、魅力的で素敵な価値のある存在なんだから。

僕らはいつでも変わることが出来る。



「起きよ。光を放てזָרַח。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているזָרַח
からだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国を覆っている。しかし、あなたの上には主が輝きזָרַח、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちを歩み、
王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(60:1~3)



今日も神様が創られた素敵な一日。

備えられた素敵を数えに今日も一緒にでかけましょうね。



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http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs112

4節「主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情 け深く、あわれみ深く、正しくあられる。」(新改訳)
4節「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。憐れみに富み、情け深く、正しい光が。」(新共同訳)

Keyword;「輝かす、光が昇る」 rise、dawn, 104:22/112:4

  • この4節は少々難解な文のようです。様々な聖書の訳を見るとそれを知ることができます。

    (1) 新改訳(上記参照)では、 主語を「主」として、その働きと性格を説明するように訳しています。

    (2) 新共同訳(上記参照)では、主語を「まっすぐな人」とし、その人の内に昇る光とその光がどのような性質かが説明されるように訳されています。岩波訳も同様です。

    (3) 口語訳では「光は正しい者のために、暗黒の中でもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる。」とあり、主語が「光」と「主」として分け、一見、別々のことであるかのように訳しています。

    (4) フランシスコ会訳では「かれは闇の中で、直き者を照らす光としてあらわれ、あわれみ深く、親切で正しい。」とあり、主語は「かれ」としていますが、その「かれ」とは誰かを明確に指定していません。「直き者を照らす光として・・」とありますから、おそらく「主」を暗示しているようにみえます。

    (5) 典礼訳では「光はやみの中に輝き、神に従う人、心正しく、あわれみ深い人を照らす。」とあり、主語を「光」としています。

このように主語がまちまちです。原文はどうなっているのでしょうか。ヘブル語の文は右から左方向ですが、ここでは右から並んている原文のことばの順に並べてみると・・・

זָרַח(ザーラハ) בַּחֹשֶׁךְ(バホシェフ) אוֹר(オール), לַיְשָׁרִים(ライシャリーム);
(輝き昇る)・・・・・(暗黒の中で)・・・・・・(光が)・・・・・・・(正しい者たちに) 
חַנּוּן(ハヌーン) וְרַחוּם(ヴェラフーム) וְצַדִּיק(ヴェツァディーク)
(恵み深い)・・ (そして憐れみ深い)・・・(そして義しい)

  • 後半の部分には、三つの形容詞が並んでいます。直訳では主語は「光」に見えます。問題は後半の三つの形容詞がどこにかかるのかということです。それによって全体の訳が変わってきます。私は典礼訳のように、三つの形容詞は「光」にかかるのが自然のような気がします。
  • そこで、この光が「輝く」「輝き昇る」と訳されたザーラハזָרַח(zarach)は、旧約で18回、詩篇ではわずか2回のみです。第一義的には、太陽が昇ることを意味します。そから、照らす、輝く、という意味が派生しています。
  • マラキ書4章2節に「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上りזָרַח、その翼には、癒しがある。」とあります。ここでいう「義の太陽」とはやがて来られるメシヤを預言しています。ルカ1:78, 79ザカリヤの賛歌にはこうあります。「・・あわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらを平和の道に導く。」と。
  • イザヤ書58:10、および60:1, 2では、「光」は神の民イスラエルを指しています。そして次のように呼びかけています。

    「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上りזָרַח、あなたの暗やみは、真昼のようになる。」(58:10)

    「起きよ。光を放てזָרַח。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているזָרַח
    からだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国を覆っている。しかし、あなたの上には主が輝きזָרַח、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちを歩み、
    王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(60:1~3)

  • 詩112篇には、闇に輝く者たちの光の歩みがいかなるものであるかを記しています。リビング・バイブルでそこを引用してみたいと思います。

    「神様を信じて従う人は、口で言い表せないほどの祝福を受けます。・・・たとい、暗やみの力に巻き込まれたとしても、すぐに光にこうこうと照らされるでしょう。彼はあわれみ深く、親切です。・・このような人は、事態が思わしくなくなったからといって、動じたりしません。周囲の人々は、神様が彼をいつも引き立てておられる様子を見て、深い感銘を受けるのです。彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、びくつきもしません。神様から見放されるわけがないと知っているからでする。ですから、何事も恐れないで、冷静に敵の顔を見つめることができるのです。彼は物惜しみしたりせず、貧しい人に気前よく与えます。その善行は、いつまでも忘れられず、人々の尊敬を集めます。これを見たひねくれた者は、怒りに震えます。歯ぎしりしながら、逃げるしかありません。望みが消え去ったからです。」(詩112篇1, 4~10節)。

  • まさにこれはイエスの十字架と復活を預言しています。イエスが「引き渡され」て十字架に向かうその姿の中に、すでに「復活の光」が前倒しされているように思います。「復活の光」とは、神に対するゆるぎない信頼であり、そこから生まれるかかわりのいのちのすべてを意味します。
  • その光の源泉は神にあります。私たちが神を恐れる者であるならば、闇を輝かすことのできる光を持つことができます。使徒ヨハネは、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。・・神が光の中におられるように、私たちも光の中をあゆんでいるなら、私たちは互いに交わりを保つ」と述べています(1ヨハネ1:5, 7)。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は主にあつて、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8) なぜなら、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は、上から来るのであって、光を造られた父から来る。」(ヤコブ1:17)からです。御子イエスを通して、父から闇を照らす光を賜わり、それを放つ者とさせていただきたいと切に思う。

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