どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。 | へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

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僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

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【詩篇90篇】o19  神の人モーセの祈り


psm90:1  主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まい です。

psm90:2  山々が生まれる前から 、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまで あなたは神です。

psm90:3  あなたは人をちり に帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」

psm90:4  まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひととき のようです。

psm90:5  あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草 のようです。

psm90:6  朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。

psm90:7  まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤り におじ惑います。

psm90:8  あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごと御顔の光の中 に置かれます。

psm90:9  まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息 のように終わらせます。

psm90:10  私たちの は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとする ところは労苦とわざわい です。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

psm90:11  だれが御怒りの力 を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。

psm90:12 それゆえ、私たちに自分の日 を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心 を得させてください。

psm90:13  帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください

psm90:14  どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。

psm90:15  あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて 、私たちを楽しませてください。

psm90:16  あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。

psm90:17  私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざ 確かなもの にしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください

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おはごございます。

今日は休みという事もあり、少し朝ぼーっとしてしまいました。

スイマセン。


では、早速。。。ん・・・今日の詩篇はモーセだって。

僕の心に留まったのはこんな箇所。

psm90:17  私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざ 確かなもの にしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください




何度も確かなものを求めている。

あの・・・モーセさんが。。


なんでやろ?

あのモーセさんも将来への不安があったんだろうか?

モーセさんの経験と賢い頭で選ぶモノにも不安があるということなんでしょうね。


僕のような凡人からすれば、

不思議ですが・・。




でも、そうなんだ。

全てを創られ治められる神様からすれば

どんな賢い立派だ!と云われる方でも神様に比べると蟻んこよりも小さい頭で考えるようなものだもんね。


そして、

自分が選んだ道にも関わらず、何故?なんて問題が起こるとき人は恐れる。

ホンマに僕らは制限された中でしか選択できない。

恐れに支配された時、一つ一つの選択が「清水の舞台から飛び降りる」くらいの事にも思えてくる。


あのモーセさんも人としての知恵の限界を感じられていた。



そんな経験ありますか?






だから

こんな言葉も。

psm90:13  帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください



この言葉は、この解説が役に立つと思う。

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新共同訳で「力づけて」と訳されたことばは、新改訳では「あわれんで」と訳されています。詩86篇でもすでに「あわれむ」という動詞を取り上げましたが、そこではハーナンחָנַן(chanan)でしたが、詩90篇ではナーハムנָחַם(nacham)が使われています。

ナーハムנָחַם(nacham)は、旧約で108回、詩篇では12回使われています。詩23篇4節には「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです(נָחַם)。」(新改訳)とあります。
岩波訳では「励ます」、関根訳では「勇気を与える」とも訳されています。したがって詩90篇でのナーハムがנָחַם(nacham)は、「慰めてください」、「励ましてください」、「勇気を与えて力づけてください」とも訳すことができます。

この動詞が使われているところには、ある苦しい状況の中に置かれているということが考えられます。「慰めよ、慰めよ」(イザヤ40章1節)と、神が預言者イザヤに語らせたことばは、神とのかかわりをリセットして新しくすべくバビロンに捕え移された者たちに向かって語られた回復のメッセージの冒頭でした。「慰める」という言葉はセンチメンタルな言葉ではありません。苦しみの中にあってもそこを避けることなく、まっすぐに貫かせ、歩ませる力づけと励ましを意味する、いわば父性的訓練と関連する恩寵用語です。詩23篇4節の「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰め」と告白しているのがその証拠です。

新約でナーハムנָחַםに対応するギリシャ語はパラカレオー(παρακαλεω)です。やはり苦難の中にある神の慰めを意味しています。ヘブル書の著者は12章5~7節に「あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧め(παρακαλεω)を忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加えられるからである。』・・神があなたがたを子として扱っておられるのです」とあります。自分が子として扱われているという恩寵に気づく時、主の懲らしめは励ましとなり、慰めとなり、苦しみの中を貫かせる力となります。これがナーハムנָחַםであり、パラカレオー(παρακαλεω)です。

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神様は苦しんでおられる方の味方。

っていうか・・・サタンに騙されおとしめられている人を励ましたいと願っている。



僕らは苦難の中だからこそ、

僕らの本当の立場を理解できるだろうから、

神様との関係を理解するのもこの機会が必要なのかも知れない。



僕らは弱い時でなければ

自分の弱さを理解できないし、

僕らの傍に居て

一つ一つの選択を確かなものとされる神様を知りえない。



モーセさんと一緒に

僕らの事を本気で心配して支えようとされる神様を求めてみませんか?





今日もきっと素敵な一日。

どんなに苦しい時でも、神様は傍に居て、僕らを支えてくれている。

心の目でそっと隣を見つめてみては如何でしょう。。


素敵な出会いがありますよう祈ってますね。