いやぁ~
日曜は息子の運動会。。
朝から場所取りをして、早朝礼拝に行ってきやした。
んで。。遅くなりましたが、、
今日も勝手にワーシップタイムをおおくりしますね。
また時間がある時是非読んで下さいね。
今日の箇所はこんなところから。
。。。。。。。。。。
act6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
act6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
act6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
act6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
act6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
act6:6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
act6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。
。。。。。。。。。。
人が集まる処
どーしても問題は起きてくるよね。
今日の箇所でも問題は起きた。
でも、
問題は起これども、その問題は祈る機会となり、
神様が働かれる時となる。
不思議だね。。
神様が働かれてるのが解るから
人々は問題がおきても、更に神様に引き寄せられて行く。
問題が問題ではない。
問題だけに焦点をあてると
僕らは悩み始め、解決法が見当たらなければ倒れるしかなくなる。残念。。
でもね。
問題の解決して下さる方に信頼できると
問題は問題ではなくなる。
それは
解決される方は
正義に立ち、そして裁きは正しいからだ。
ここでの問題はこんな感じだった。
ユタヤ人でも言葉も違い、文化の違いもあった。
その文化の違いから配給における苦情がでてきた。
因みに「やもめ」とは
主人の居ない婦人の事である。
僕は昔、フィリピンのスラム街にある教会に行った時の礼拝でこんな風景をみた。礼拝の前から大きなツボが礼拝堂の前においてあるのを少し不思議に思っていた。
礼拝が終わりに近づいた時、神様にお金を捧げる時間があった。順番をむかえる時、ある婦人は袋を持ってきてその大きなツボに入れていた。
その方は、捧げるお金のない方だった。
実は、自分が食べるお米を持ってこられてた。僕はその光景をみて心が揺さぶられたのを覚えている。
僕らは食べる心配なく、いろんな買い物も出来る自由なお金の中から捧げる。でもね~、この方々は明日の食事も心配なのに捧げてる。
凄い信頼ですね~。見習わないと・・・。
やもめとは、
そういった環境の中にある方々だった。その方々への配給において苦情が出る事とは、その方々にとっては本当に大変なこと。配給がなければ、その方々は飢える事しか残されていない。
問題はどんなときも起きる可能性がある。この状況で、ジーザスを信じる方々が増えるという事は、その数によって問題も大くなってきたに違いない。その問題解決はどれほどの時間を費やす事でやろう。ホンマ外からみても大変やね。やから、その問題解決される為の人が必要でそしてある条件に満たされた人が選ばれた。
その条件とは何だろう?
それは、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち
御霊と知恵とに満ちた方が
そして、評判の良い方々が選ばれた。
評判の良い方ってのは、その場シノギでない方。
皆の集まる時だけ頑張って評価を貰う人間じゃ評判は悪くなっちゃうね。
日ごろからの姿勢がきっと素敵なんだろうなと思う。
そして
その方は、偉い人でも自分の経験や学んだ知識で解決していくような方ではなかった。自分の頭で考えると何処かで誤る可能性があるからね。
聖霊と知恵とに満たされるとは
自分の考えに頼らないで、僕達に与えられてる目には見えない助け主に耳を傾けるって言うこと。
僕らは持ってる問題を通して
神様の不思議な業を引き出す事が出来る。
問題を通して更なる発展をしてきた当時の教会のように
僕らも与えられた問題をとおして、僕ら自身が強くなり、また大きくなる。
今週も
不思議な神様の御業を体験していきましょうね。
では。素敵な1週間を過ごせますよう祈ってます。
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