「断食と祈りをしている時」
それが、今日のキーワード。
でも、正直ナゼかボヤ~っとしててメッセージをよく聞けなかったんだなぁ。いつもより更にユテコちっくですが宜しくです。
何故なんだろう?
まず断食って何って話しだ。断食は神様に集中する事が出来ると牧師は断食を体験して思わされている事だそうだ。断食は正直ツライ。始めは集中出来ず頭も痛むらしいが、その際一日半を過ぎた時からら徐々に痛みがマシになり集中しやすくなるらしい。
僕も韓国の断食祈祷院へ行った事はあるけど、僕は正直ぼ~っとして集中できらなかった。やはり何度かやってると出来るようになるのだろう。
その後、やる機会はなかったけど、祈ってた不思議な事を体験する事が出来た。やはり、バイブルに記されている通り、僕の経験以外にも断食の必要性があるのだと思わされた。
今日はこんな箇所から。
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act12:24 主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。
act12:25 任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た
act13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
act13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
act13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
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主の御言葉はますます盛んになって・・・た時に、人事異動なんかパッとしてもいいモンだろうけど、わざわざ断食と祈りをする必要があったという事。
断食は
今与えられている体は制限がアル事を思い知らせてくれる。特に食欲に支配されている事をハッキリ示してくれる。
しかし、
その体における制限がある中でも、僕らの本質である心(霊)の領域では制限されては居ない事を見出せるというのがヤる意義のある事の一つなのかもしれない。
僕らは制限された体に住んでいる。
その体と同じように僕らは制限されて生きる必要があるのだろうか?
『 否 ! 』
実は僕らは
体は制限されても、僕らの心(霊)は決して支配される事がないという事を忘れてはならない。断食はその自分自身の本質を研ぎ澄ませてくれる。
祈りは当然どんな時にも出来るモノだけど、本当に真剣な祈りはそんな時に捧げられるのかもしれない。
ただ、
次の真理を覚えておく事で
その祈りは大きく変わるに違いない。
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eps1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
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何かヒントありそうでしょ。
神は霊であるから、霊でなければ真理は解らんっちゅうことやよね。自分の頭で考え達したところには、制限為れた知識しか得られ無いから、真理からズレてる事もあり得る。霊である御霊に聴かなきゃ、本来真理は知り得ない。
御霊によって得られた真理により、祈ろうとする時、何からも制限されずに大胆にジーザスの名によって「神の全能の力の働きによって」神様のもてる範囲で祈るコトが出来る。
体によって制限されず
神様の制限をすることなく
祈る事ができたらイイですね。
では。
今週も素敵に過ごせますように。
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