灰谷健次郎さんの作品は、物心ついた頃から家の本棚にあった。
初めて読んだのは「兎の眼」。
小学校二年か三年の頃、夏休みの読書感想文に選んだのは確か「せんせいけらいになれ」。
ご自身も小学校で教鞭を執っていた灰谷さんによって描かれる子供たちの瞳は、
いつもキラキラと輝きを放っていて、当時登場してくる少年少女と同じ小学生だった私は、
彼らの真剣な眼差しの向こう側に佇む「灰谷健次郎」という懐の深いひとりの教員に思いを馳せた。
こんなせんせぇがいたらいいのにと・・・。
ところが、今回、久々に家の本棚に手をのばし、選んだ「少女の器」という作品。
初めて読んだのだけど、上に挙げたものとは少し違った。
これまでのような小学校低学年の子供たちと先生、ではなく、
思春期の少女にスポットライトを当てている。
ほんのり甘酸っぱい恋愛も織り交ぜられている。
(少女曰く、思春期と一言で片付けるのは大人の怠慢、と一蹴していたけど)
お子さんがいるとは聞いたことがない灰谷さん。
教え子である子供達も次第に大人へと脱皮し、それぞれの道を選んで歩いていく。
ひょっとすると、そんな姿を見て、もう屈まなくても目線が合う、一人の人間として尊重し、
距離を測るためにご自身を父親役として重ねたのではないかという気がした。
主人公は、版画作家である父親と大学教授をしている母親の離婚を経て、
周囲の同級生よりも一足お先に大人になった絣(かすり)という高校一年生の少女。
少女から女性へと確実に変貌を遂げている蛹(さなぎ)時代を、
灰谷さんならではの優しい目で見守っており、時折鼻の頭をツンと赤くしながら読んだ。
利発的で洞察力に優れ、感情と理性のバランスもとれている、
少女と女性の顔を併せ持ち、アンビバレントな魅力に包まれた絣ちゃんは、
私から見て、時に鼻につくほど狡猾で、時に羨ましいほど潔かった。
ふと自分と重ね合わせてみる。
自分の両親の離婚は既に成人した頃だった。
私にとって両親とは決して繋がりを切れない、
其々が唯一無二の存在であるけれど、父と母は違う。
出会ったのだ。他人と他人として。男と女として。
紙切れ一枚では切っても切れぬ「縁」や「絆」があり、
もともとお互いは他人だったのだと思い改めさせる
「大きな溝」も 同時に目の当たりにした。
当時の自分はそれを仕方のないことだと、
比較的切り離した視点で捉えていたという自負があった。
けれども、結局、大人にはなりきれていなかったなぁと今になって思ったりして。
絣ちゃんも両親のことについては、大人同士の選択に深く介入はしないスタンスを取っている。
あるときは大人として父親の傍らに、母親の傍らに。
あるときは少女に戻って、父親の肘に腕をするっと絡み付け、
母親に猫なで声で甘えて。
巧い。そしてずるい。
あ、でも、まるでそれって私じゃん。
結局私も彼女と同じで、割り切ったつもりになっていただけで、
幼い自分を武器にしたり、隠したりしながら、心の片隅で
二人の復縁に淡い期待を寄せていたんだと思う。
絣ちゃんに見透かされている気がした。(笑)
自分もいつか子供ができたら、もう一度読んでみたい作品のひとつになった。
余談。
今江祥智さんの「優しさごっこ」を思い出した。
子供って、大人よりも大人だなぁと唸らせられるという点で。
山田詠美さんの「僕は勉強ができない」を思い出した。
自由奔放で、開放的で、そのわりに結構繊細で、
不完全な印象の母親が少し似ている。