【私と彼と映画】
いきなり赤裸々日記っぽくなりますが、敢えて強行突破します。
私が現在お付き合いしている男性は、人生の半分以上を費やしているといっても過言ではない程、日々を映画と密接に暮らしています。
19××年とくれば、「あぁ、あの作品が公開された年だね!」といった具合に、テーブル上のタバコケースで対象物の尺を取る要領で、何事も映画年表に当てはめて語ることができる流暢さであります。(というと少々大げさかしら)
映像関係の仕事に携わっていることも多少は関係あるのでしょうが、もともと幼少のころから好きで映画館に通いつめ、培ったデータベースのその精密たるや、脱帽です。
彼と知り合ったおかげで私も例年に類を見ないほど多くの作品に触れる機会に恵まれ、脳内のシナプスは劇的な増加の一途を(辿れていたらいいなと思います)。
極上のナビゲーションの助けもあり映画の楽しさ倍増の日々を送っているのですが、最近ただ素直に楽しいと喜べない一つの消化不良が私の中に滞留していることに気がつきました。
(責任転嫁甚だしい話ですが、)無意識のうちに私は「映画」という分野に関して言葉を失っていたという点です。
彼というwikipediaを通して、私が今までに触れて、見て、感じ取ってきた以上に映画が深いジャンルなのだという発見は、容易く評価や感想を述べることに対して、ある種、畏れ故の恐れを生んでしまったのかもしれません。
感想一つをとっても、まるでレポートのような完成度を求められているような気がしてしまい、
「こんな発言は検討違いではなかろうか」
と、つい喉元に言葉を留めてしまうようになりました。
又、そんなことを考えている時点で、どこか注意力散漫な自分を俯瞰することもあります。
映画において私と彼はいつも対極の関係にあって、つまり、彼はどちらかといえば(※)発信者側で、私は完全なる受信者側だということ。
※前者は「どちらかといえば」といいましたが、本来は受信者側として魅了されてその世界に骨の髄まで浸った結果もたらした成果としての発信者側見解といいますか、両方の要素を持ち合わせている人がほとんどなのではないかと思ったからです。
彼を見ていると、発信者側ならではの制作者の意図や苦悩に対しての気づきや配慮があったり、一つの作品を正当に評価するための礼儀を垣間みる事ができます。
それとは対極的に私は常に上げ膳下げ膳で用意されたお料理を、ただお金を払って食べるだけ。
そしてかなり高い頻度で食べ残しをしているような気がしました。
そんな食べ残しをしないという意味でも、これからこのブログに書き溜めていきたいと思っています。
的外れな見解を並べることもあるかもしれないけど、少しずつ、少しずつ、失った言葉を取り戻していきたいと思います。